第10話
宿の夜は静かだった。
酒場の騒ぎも、次第に小さくなり、客の何人かはすでに部屋に引き上げている。
カイ・ルザルドは、変わらずカウンターで安い酒をなめていた。
長い戦場の空気をそのまま持ち帰ったような男――無口で、油断がなく、だがどこか抜けた温もりを纏っている。
レオは、目を伏せたまま深く息を吐いた。
「……セレス、あいつを部屋に誘い出す方法、思いついた」
セレスは珍しく目を丸くする。
「騎士殿が......これは興味深い」
「言うな。言葉にするな。二度と言うな」
「了解しました。記録だけはしておきますね」
◆◆◆
カイが一人で飲んでいる酒場の端に、レオは――“レオの姿”をしたまま、そっと腰を下ろした。
鞘付きの剣は背に隠し、上着はやや肩を落とし、声も低く抑える。
「……ご一緒、しても?」
その声に、カイがちらと視線を向けた。
かつての副官は、老いていたが目だけは鋭かった。
一瞬、警戒の色が浮かぶ――が、数秒後にはその警戒も緩む。
「……嬢さん、旅の人かい」
「ええ。ひとりでは心細くて」
その笑みの下で、レオの奥歯は軋んでいた。
(こんな……屈辱は……)
だが、誘導は成功した。
宿の部屋に入ると、レオは戸を閉めて、背を向けたまま口を開いた。
「いい部屋ですね。静かで……誰にも聞かれない」
カイが笑いながら上着を脱ぎかけた、その瞬間。
「カイ・ルザルド」
その名を、女の口が呼んだ。
動きが止まる。
レオはゆっくりと振り返り、手にした鞘付きの剣を――
勢いよく、腹部へと振るった。
「ぐぉっ……!」
鈍い音とともに、カイが後方に転がった。机が倒れ、ランプの火が揺れる。
「誰が“座れ”と言った。俺は……騎士レオ・ヴァレンティアだ」
床に伏せるカイが、血の気の失せた顔で見上げた。
「……嘘……だろ……」
「本物だ。死んだはずの俺が、生きている。お前が“そうした”んだろう」
レオは足音を立てて近づき、倒れたカイの襟元をつかむ。
「俺を、死んだことにして消した。記録から名を消し、戦いの痕跡すら葬った。
誰の命令だ。なぜだ。答えろ、カイ」
カイは呻きながらも、わずかに笑った。
「……本当に……お前なのか……」
「答えろッ!」
鞘で、床を叩く。刃は抜かない――だが、感情は鋭利だった。
「……部隊を消してまで、何を守った……?」
沈黙の中、クローゼットの奥にセレスが隠れていた。
その顔には、珍しく真顔の色が浮かんでいる。
「……こうなると思いました」
彼女はぼそりと呟き、記録帳に一文だけ記した。
『騎士、魂の激昂。自らの羞恥を越え、真実へ踏み込む。』
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