第9話

 馬車は東へと進み、風景は次第に荒涼とした野に変わっていた。

 かつての前線――ナクス。

 今は戦は収まっているが、腐った土の匂いはまだ残っている。

 沈黙が長く続いたあと、セレスがふと口を開いた。

「それにしても、“部隊ごと名前を消される”なんて随分な仕打ちですね。

 ……私なら、死体を剥製にして飾っておきますよ」

 レオは顔をしかめた。

「悪趣味だな」

「いえ、純粋な保存です。記録のために。

 魂がどこへ行っても、“形”が残っていれば参照できますから」

「そういう問題か」

「そもそもあなたの魂がその辺の騎士より価値があるのですから、

 標本としてでも飾るべきでしたよ、当時の上官は愚かです」

「……俺の体はすでに作品扱いなのに、今度は標本扱いか」

「でも、消されるよりはずっとマシでしょう? まったく痕跡がないなんて、死体としても不名誉です」

 レオは言葉に詰まり、やがて小さく笑った。

「……それは、お前なりの慰めか?」

「もちろん、冗談です」

 セレスはにこりと笑った。

 だが、その目には冗談めいた色は一切なかった。

 

 彼らがナクス前線跡に近い小宿に辿り着いたのは、日も傾きかけた頃だった。

 宿の一階の酒場では、退役兵たちが陽の高いうちから酒をあおり、くぐもった笑い声が飛び交っていた。

「多少、話が通じそうな者はいないか探してみましょうか」

 そう言ってセレスが店の奥を眺めたそのときだった。

「……あれは」

レオの声が低く落ちた。

 視線の先、木製のカウンターに肘をついて座る男――

 銀髪に近い白髪。斜めに割れた顎の傷。

 脇には使い古した長剣の柄が、椅子に立てかけられていた。

「あいつは、“カイ・ルザルド”」

「お知り合いですか?」

「……かつての部隊の副長。俺の……副官だった」

 その言葉に、セレスの目がわずかに光る。

「つまり、部隊の記録抹消に関与していた可能性がある、と」

 レオはうなずかず、ただ前を見つめたままだった。

「あいつは……嘘をつける奴じゃなかった。

 だが、何かを“守るために黙る”ことはできる人間だった」

「では、声をかけてみましょう」

 セレスが一歩進みかけたとき、レオが彼女の腕を止めた。

「俺が行く。……俺の過去だ」

「……ええ。では私は、カウンターの三席後ろから見守ることにします」

 セレスは腰のポーチから筆と記録帳を取り出しながら、軽く微笑んだ。

「観察対象が二人になるなんて、楽しい夜になりそうです」

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