第4話

「……もう立っていられるのですね」

 背後から声がした。

 乾いた、澄んだ声。

 振り返らなくても、誰だかはわかった。

 レオは肩をすくめ、無言で頷く。

 視線はまだ鏡に向いたまま。

 だが、そこに映る顔を見るのではなく、ただ“境界線”のように自分を見つめていた。

 セレスの足音が、静かに近づいてくる。

 その足取りにも、躊躇いはなかった。

「ここは、北端の修道砦。王国の国境からは遠く離れています。

 ……あなたが倒れてから、およそ三日が経ちました」


 レオは一度、目を閉じた。

 意識が断たれた瞬間の記憶。炎、咆哮、そして――剣。

 それらが、まだ身体の奥に残っていた。

「馬車は半壊。護衛のうち半数が死亡。

 あなたは、最も深い傷を負っていました。頭部の損傷。脳の一部の焼失。

 本来なら……魂も離れていたはず」

 セレスは、レオの左側に立った。

 鏡越しに視線が合う。

 彼女の目には、驚きも、哀れみもなかった。

 ただ、静かな確信があった。

「けれど、あなたはまだそこにいた。

 だから私は、もう一度――あなたを、この世に繋ぎとめることを選びました」

「……この姿で?」

 レオの声は低く、平坦だった。

 怒気も皮肉もなかった。

 ただ、事実を確認する声音。

 セレスは小さく頷く。

「最も安定した構成を選びました。

 器の形ではなく、“魂の居場所”として、最適なものを。

 ……あなたが誰かも、知らないまま」

 レオは目を伏せた。

 名も、顔も知らぬ男を――騎士を。

 その魂だけを信じて、彼女はここまでのことをした。

「俺が、何者かも知らずに」

「ええ。でも、あなたが“騎士である”ことは知っていました。

 剣を抜いたその動きが、目を背けず前に出たその姿が、

 ――魂が、そう語っていた」

 沈黙。

 再びレオは鏡を見た。

「......この姿で? 悪趣味な死霊術師が......」

「よく言われます」

 セレスの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。

「ただ私は、騎士という魂の形を、誰よりも美しいと思っているだけです」

 レオは小さく息を吐いた。

「何を勝手なことを……!」

 鏡を振り払うようにレオが振り向いた。

 その剣を抜いていなくても、気迫だけで空気が裂けた。

 セレスはわずかに瞳を細めた。

 だが一歩も引かず、静かに右手を上げた。

「《緊縛(デバイオ)》」

 言葉と同時に、レオの身体がぎし、と音を立てて止まる。

 足が床に縫い付けられたように動かず、指一本すら震わせられない。

 魔術というより、魂に直接鎖をかけるような術だった。

 レオは歯を食いしばる。

 怒りではない。

 ――これは、恥だ。

 魂を縛られたという事実に、何よりも屈辱を感じていた。

 セレスはその様子を見て、静かに一歩、彼に近づいた。

「どこまでも、誇り高き騎士というわけですね」

 小さく、唇の端を持ち上げて――微笑んだ。

 それは冷笑でも、挑発でもなかった。どこか呆れたような、けれどどこまでも美しいものを見るときのような、敬意の混じった微笑だった。

「そんな魂だったからこそ、私は……あなたをこの世に引き戻したんです」

 術はほどけた。

 レオの身体がふっと揺れ、支えを失ったように膝をつく。

「……ふざけるな」

 かすれた声で、彼は言った。それは怒りでも、憎しみでもない。痛みと屈辱の、ぎりぎりの境界にある声だった。

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