第7話:最終話:最高の彼女
あれから、どれくらいの時間が経っただろうか。
俺はもう、ニュースを見るのをやめた。クローゼットは開かずの間となり、毎日の食事は、ただただ感情を無にして胃に流し込むだけの作業になった。
俺が「美味しい」と言うたびに、街のどこかで悲しみが生まれる。
俺が彼女を肯定するたびに、俺の魂はすり減っていく。
だが、彼女を否定すれば、この地獄が終わらない。
俺は、自分が作り出した矛盾の檻の中で、ゆっくりと飼い殺しにされていくだけだった。
そんなある日の夜。
部屋の扉を開けると、いつもと違う光景が広がっていた。
安物の折りたたみテーブルの上には、白いテーブルクロスがかけられ、中央にはどこから持ってきたのか、小さなキャンドルが一本、静かに炎を揺らしている。
そして、テーブルの上には、所狭しと料理が並べられていた。
ローストビーフ。魚介のカルパッチョ。彩り豊かなサラダ。きのこのポタージュ。そして、中央には小さなホールケーキ。
それは、今までで最も豪華で、完璧なフルコースだった。
呆然と立ち尽くす俺の前で、白いワンピース姿の彼女が、ちょこんと椅子に座っていた。
俺の姿を認めると、彼女はすっと立ち上がり、壁に貼られたカレンダーを、その白い指でとん、と指し示した。
今日の日付。赤い丸がつけられている。
俺は、忘れていた。いや、忘れたふりをしていた。
今日。10月26日は、俺の誕生日だ。
「……そっか。俺の、誕生日か」
乾いた笑いが漏れた。
彼女は、俺を祝おうとしてくれているのか。この、おぞましい食材のフルコースで。
俺はテーブルに歩み寄り、ローストビーフの塊を睨みつけた。完璧な火加減の、美しいロゼ色。これが、ゴールデンレトリバーだったら? シェパードだったら?
「なあ」
俺は、絞り出すような声で言った。
「今日のこの肉は……犬じゃ、ないんだろ?」
もう、聞かずにはいられなかった。今日だけは、今日だけは、まともなものであってくれ。
俺の悲痛な願いに、彼女は、
こくり。
と、静かに頷いた。
安堵と、新たな恐怖が同時に襲いかかってきた。
犬じゃない。猫でもない。
じゃあ、なんだ?
まさか、まさか、ついに――
俺は、震える手でフォークを握りしめた。これが、最後の晩餐だ。
これを食べて、「最高だ」と言って、この地獄を終わらせるか。
それとも――。
俺は、意を決してローストビーフを一切れ口に運んだ。
そして、咀嚼する。
味は、ない。いつもの、虚無の味だ。
だが、その食感に、俺は覚えがあった。何度も、何度も食べたことがある。スーパーで安売りされている、オーストラリア産の牛肉の味だ。
「……え?」
カルパッチョを口にする。鯛だ。普通の、ただの鯛の味がする。
ポタージュをすする。きのこの風味が、ちゃんと舌に広がった。
味が、ある。
初めて、彼女の料理に、本物の「味」がした。
なぜ?どうして?
混乱する俺の前で、彼女は、おもむろに自分の胸に、そっと手を当てた。
そして、その手をゆっくりと下ろすと、彼女の手のひらの上には、一枚のコインが乗っていた。古びた、十円玉。
コックリさん。
本来は、質問に対して、コインが文字盤を滑って答えを示すもの。
彼女はずっと、そのルールに縛られていたんだ。
彼女は「はい」「いいえ」でしか答えられなかった。頷くことと、首を横に振ることしか。
だから、彼女は料理の「味」という複雑な概念を再現できなかった。食材も、善悪の判断がつかず、ただ手近な「肉」を調達するしかなかった。
だが、今日の料理には味がある。食材も、まともだ。
それはつまり、彼女が「はい」「いいえ」以外の、もっと複雑な情報を理解し、再現できるようになったということ。
どうやって?
答えは、すぐそこに転がっていた。
俺だ。
俺が、毎日毎日、「美味しい」と嘘をつき続けた。
「味が染みている」「最高の焼き加減だ」と、具体的な言葉で褒め続けた。
彼女は、その膨大なデータを蓄積し、学習し、そしてついに、「味」という概念を理解したんだ。
俺の言葉が、空っぽだったはずの彼女の中に、「心」のようなものを育んでしまったんだ。
俺は、目の前の料理と、彼女の顔を交互に見た。
いつもの虚ろな瞳。だが、今日だけは、その奥に、ほんのわずかな「感情」の揺らめきが見える気がした。
期待と、少しの不安。
「美味しい」と、言ってくれるだろうか。
彼女は、俺のその一言を待っている。
俺の願いは、なんだった?
『自分の言うことなんでも聞いてうなづいてくれる最高な彼女』
彼女は、俺の言うことを聞いた。
俺が「美味しい」と言えば、頷いた。
そして、ついに、本当に美味しい料理を作る、最高の彼女になった。
俺の『願い』は、今、この瞬間。
完全に、成就したんだ。
利用規約の一文が、頭をよぎる。
『利用者様の『願い』が完全に成就するまで、いかなる理由があっても解消することはできません』
つまり、今なら。
今、「もういい」と言えば、彼女は帰る。
この奇妙で、恐ろしくて、そして少しだけ愛おしかった生活は、終わる。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
彼女は、じっと俺を見つめている。
俺は、彼女に微笑みかけた。心からの、初めての笑顔だった。
「ありがとう。今までで、一番美味しいよ」
彼女は、何も答えない。
ただ、その体がおぼろげに透き通り始めていた。足元から、光の粒子になって、ゆっくりと霧散していく。
別れの時が来たのだ。
彼女は、消えゆく体で、最後に、俺に向かって、
こくり。
と、深く、深く頷いた。
その瞳に、一筋の涙が伝ったように見えたのは、きっとキャンドルの炎が揺れたせいだろう。
光が完全に消え去った後。
部屋には、俺と、温かいままの料理だけが残された。
もう、誰もいない。いつもの、がらんとした六畳一間に戻っただけだ。
俺は、一人、誕生日席に座った。
フォークでケーキを一口、口に運ぶ。
甘くて、優しい味がした。
「……最高の、彼女だったな」
ポツリとつぶやいた言葉は、誰に聞かれることもなく、静かな部屋に溶けていった。
涙の味が、少しだけしょっぱかった。
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