第6話:帰還拒否



あの夜、俺は一睡もできなかった。

クローゼットの扉は固く閉めたが、目を閉じれば、あの無数の首輪がまぶたの裏でチリン、チリンと鳴り響く。隣の部屋で、彼女が静かに座っている気配が壁越しに伝わってくるだけで、心臓が凍り付くようだった。


もう、無理だ。

この生活は、破綻している。いや、最初から破綻していたんだ。俺の身勝手な欲望が生み出した、歪な関係。これ以上、罪を重ねるわけにはいかない。俺自身の精神が持たない。


夜が明け、青白い光が部屋に差し込む頃、俺はひとつの結論に達していた。

彼女に、帰ってもらおう。

それが、唯一の方法だ。俺が犯した過ちに対する、最低限の償い。


俺はベッドから這い出し、リビングへと向かった。

彼女は、いつもと同じように部屋の隅に座っていた。俺の姿を認めると、すっと立ち上がり、キッチンの方へ向かおうとする。朝食の準備だ。きっと今頃、冷蔵庫には新たな「犠牲者」が食材として補充されているのだろう。


「待ってくれ!」


俺は、自分でも驚くほど大きな声で彼女を制止した。

彼女はぴたりと動きを止め、不思議そうにこちらを振り返る。


俺は深呼吸を一つ。覚悟を決めて、彼女の前に立った。ガラス玉のような瞳を、まっすぐに見つめる。

「なあ、コックリさん」

諭すように、懇願するように、言葉を紡いだ。

「もう、いいんだ。もう、十分だよ。だから……きみは帰ろう? きみがいた、自分の場所へ」


これで、終わりだ。

彼女は、俺の願いを叶える存在。俺が「帰れ」と願えば、きっと……。


その期待は、次の瞬間、木っ端微塵に打ち砕かれた。


ブンブンブンブンッ!!


「え……?」


彼女は、今まで見たこともないような激しい勢いで、首を真横に振り続けた。

長い黒髪が嵐のように乱れ舞う。それは、第二話で見せた「コックさん?」への否定とは全く違っていた。

あの時は、単なる事実の訂正だった。

だが、今、彼女が示しているのは、明確な――**「拒絶」**だった。


「な、なんで……?」


俺の言葉が、届いていない? いや、そんなはずはない。彼女は俺の言葉を正確に理解するはずだ。

狼狽する俺を前に、彼女はピタリと首の動きを止めると、おもむろに俺に近づいてきた。

そして。

その白く冷たい指先で、俺のTシャツの裾を、きゅっ、と弱々しく掴んだ。


初めて、彼女から触れられた。

その行動の意味が分からず、俺は完全に固まってしまう。


彼女は、俺の服を掴んだまま、虚ろな瞳で俺の顔をじっと見上げる。

そして、もう一度。

ゆっくりと、しかし、断固として、首を横に振った。


――帰りたくない。


言葉はない。表情もない。

だが、その全身から発せられる意思は、痛いほど俺に伝わってきた。


どうしてだ? なぜ、帰るのを拒む?

俺の願いを叶えるのが、きみの役割じゃないのか?


混乱する頭で、俺はポケットからスマホを取り出した。震える指で、あの忌まわしいアプリ『降霊マッチング【コクリ】』を起動する。

今まで読み飛ばしていた利用規約や、ヘルプの項目を必死に探す。「送還方法」「契約解除」……何か、何か手がかりはないのか。


そして、俺は利用規約の最後、米粒のような小さな文字で書かれた一文を見つけてしまった。


※一度成立したマッチングは、利用者様の『願い』が完全に成就するまで、いかなる理由があっても解消することはできません。


『願い』が、完全に、成就するまで。


俺の願い……?

『自分の言うことなんでも聞いてうなづいてくれる最高な彼女がほしい』

……まさか。

この地獄のような生活を、俺が「最高だ」と心の底から認めない限り、彼女は永遠に帰らないというのか?


絶望に顔を上げた俺の視線の先で、コックリさんは、俺の服の裾を掴んだまま、小さく、こてん、と首を傾げていた。

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