第3話:理想の味

第三話:理想の味


キッチンに立つ彼女の背中は、一枚の絵画のようだった。

長い黒髪を揺らしながら、音もなく調理を進めていく。包丁がまな板を叩く音も、フライパンでベーコンを焼く音も、なぜかほとんど聞こえない。まるでサイレント映画を見ているようだ。


俺はテーブルの向こう側で、固唾を飲んでその光景を見守っていた。

(食材召喚とか、マジかよ……。俺、とんでもない存在を呼び出しちまったんじゃ……)

恐怖と期待が入り混じった、奇妙な高揚感。

やがて、彼女は完成した一皿を手に、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。


白い皿の上に鎮座しているのは、完璧なスクランブルエッグ。ふんわりと黄金色に輝き、傍らにはカリカリに焼かれたベーコンと、彩りのパセリ。見た目は、ホテルの朝食に出てきてもおかしくないレベルだ。


「お、おお……! すごいじゃん!」


彼女は皿をテーブルに置くと、俺の向かいの席にちょこんと座り、じっと俺を見つめてきた。その虚ろな瞳が、「さあ、どうぞ」と無言で語りかけてくる。


「い、いただきます!」


俺はフォークを手に取り、まずは主役のスクランブルエッグを一口。

最高の彼女が作ってくれた、初めての手料理。どんな味がするんだろう。きっと、天にも昇るような、幸せの味が……。


「うっ……!?」


口に入れた瞬間、全身に衝撃が走った。

なんだ、これ。

味が、しない。いや、違う。味がしないどころじゃない。まるで、味覚という概念そのものを消し去るような、虚無の味が口いっぱいに広がる。食感はある。ふんわりとした卵の感触はあるのに、そこに本来あるべき風味や塩気、旨味が、完全に欠落している。スポンジを食ってるみたいだ。いや、スポンジにすら味があると思えるほど、これは無だ。


「か……っ」


あまりの衝撃に、声にならない声が漏れる。なんとか飲み込もうとするが、喉が受け付けない。

隣のベーコンはどうか。見た目は完璧な焼き加減だ。祈るような気持ちで口に運ぶ。


――ガリッ。


「いってぇ!!」


なんだこの硬さ!? 化石か!? 俺の歯が砕けるかと思った。そして、やはり味はしない。ただひたすらに硬く、無味の炭素の塊を噛んでいるかのようだ。


「うわ! まずい! なんだこれ、食えねーぞ!?」


思わず叫んでしまった。

しまった、と顔を上げる。目の前には、最高の彼女がいるというのに。なんてことを言ってしまったんだ。

恐る恐る彼女の顔色を窺う。


彼女は、相変わらずの能面だった。

俺の絶叫にも、ピクリとも表情を変えない。ただ、そのガラス玉のような瞳で、俺と、俺の目の前にある「料理」を、じっと見つめている。

その静寂が、逆に怖い。怒ってるのか? 傷ついたのか?


「あ、いや、その……ごめん! 今のは嘘! 美味い、美味いよ!」


俺は慌てて、虚無のスクランブルエッグをもう一口、無理やり口に詰め込んだ。涙目になりながら、必死に咀嚼する。そして、精一杯の笑顔を作って、親指を立てた。


「最高! 最高の味だよ! さすがコックリさん!」


すると、彼女は。

俺のその言葉に、ゆっくりと、


こくり。


と頷いた。

その瞬間、俺は全てを察してしまった。


そうだ。彼女は、俺の願いを叶える存在。

俺は願った。「自分の言うことなんでも聞いてうなづいてくれる」と。

だから彼女は、俺が「美味しい」と言えば、それを肯定して頷く。

彼女自身に「味覚」という概念はないのかもしれない。彼女が作った料理は、ただ「料理という形式」を完璧に再現しただけの、ハリボテみたいなものなんだ。

俺が「美味しい」と言えば、それで「正解」になってしまう。


俺の目の前には、まだ皿の8割が残っている、虚無の朝食。

そして、その向こう側には、俺が「美味しい」と言ったから満足げに(見えないけど、たぶん)頷いている、薄気味悪くて最高に可愛い彼女。


「……ははは」


乾いた笑いが漏れた。

俺の理想の彼女との生活は、どうやら俺自身の「言葉」に、全ての責任がのしかかってくるらしい。


「おかわり、いる?」とでも言いたげに、彼女が小さく首を傾げた。

俺は、引きつった笑顔のまま、力なく首を横に振ることしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る