完璧な不在

望月おと

完璧な不在

彼女の目には、誰も映っていなかった。

いや、映さなかっただけなのかもしれない。


高校時代、私はひとりの女子に取り憑かれていた。いや、恋とか、そういう類のものではない。憧れ、と言い切るにも抵抗がある。たぶん、もっと単純で、もっと厄介な、敗北感のようなものだった。


彼女の髪は艶やかで、前髪はふんわりと巻かれていた。きっちりと八二に分けられ、まるで定規で引いたかのように整っていた。わざとらしさはなく、それでいて完璧に作り込まれていた。その姿がよく似合っていた。


おそらく彼女は、自分の顔がどう映るかを、他人が思っているよりずっとよく理解していたのだろう。小さな顔に、大きく切れ長の瞳。憂いを孕んだその瞳は、長いまつ毛を気だるげに上下させている。触れれば簡単に折れてしまいそうなほど細く、それはもう、儚かった。


彼女は本当に、綺麗だった。壊れもののようで、しかし、どこか地に足がついていた。だいたいの男が好きになる女の子の要素をすべて備えていたが、残念ながら私はその種の単純な男ではなかった。そもそも、男でもなかった。


 あの頃の私は、いつもびくびくしていた。嫌われないように、怒られないように、浮かないように。誰かが笑えば笑い、誰かが泣けば眉をひそめた。返却期限も知らないまま、感情のレンタルばかりしているうちに、自前の感情というものはすっかり手元から消えていた。


私のは意志、というより石。その辺に転がる、誰にも拾われない小石。靴の裏に貼りついたそれは、たまに痛むけれど、わざわざ取るほどの価値もない。その歩きにくい靴で、私はどうにか薄汚れた群衆のなかに身を潜めていた。


 彼女は空気なんて読まなかった。いや、読んでいたのだ。けれど、それは筋の通らぬ通俗小説のようなもので、読めば読むほど白々しく、彼女は鼻で笑いながら、途中で本を閉じたのだ。賢明にも。


授業中もろくにノートなんて取らずに、ぼんやりと窓の外ばかりを眺めていた。教室で何が起ころうと、まるで別世界の話といった顔で、口元には、これ以上ないほど退屈そうな一本の線が引かれていた。あんなにも他人に無頓着でいられる人間がいることに、私は、自分のこざかしい処世が、急に恥ずかしくなった。


 彼女とは、なぜかよく一緒にいた。彼女に話しかけられた覚えはあまりない。気づいたら、横に座っていて、一緒に昼食をとる仲になっていた。放課後には、私がノートに向かう隣で、大音量でスマホのパズルゲームなんかをしていた。私は片耳でその音を聞きながら、ああ、これが彼女なのだ、と妙に納得していた。


私はたぶん、“個性”というものに、盲目的な敬意を抱いていたのだろう。彼女の言動は少し変わっていて、少し迷惑で、少し面白くて、どこか魅力的だった。彼女の気だるげな横顔や、突然発する詩的な言葉に、いちいち感動していた。そして、そんな彼女にどうしようもなく惹きつけられていた。言葉にすれば陳腐になるけれど、彼女からは、“自由”のようなものを感じていた。彼女のそばにいるだけで、自分も少し特別になれる気がしていた。


 けれど、彼女はきっと、私のことなどどうでもよかったのだと思う。待ち合わせには平気で遅れ、ドタキャンも日常茶飯事。大事なテストの一日目に、突然姿を消したときも、私は何度も連絡したけれど、彼女は無視を貫いていた。居ても立ってもいられなくなって、その日のうちに、私は彼女の家まで行ってしまった。


玄関に出てきたのは、彼女の母親だった。「今日は無理みたいです」とだけ言われ、彼女の顔を見ることはできなかった。それでも私は、彼女が好きなグレープ味のグミと、栄養ドリンクを渡してそそくさと帰路に着いた。まるで、宗教的な儀式。祈る対象に見返りなど求めてはいけない。


報われるはずのない奉仕。自己満足の献身。期待しないふりをしながら、ほんの少しだけ期待していた自分。あれほど、滑稽で、そして充実していた人間が、この世にいただろうか。もちろん、彼女はそれを一秒も覚えていないだろうけれど。今になって思う。あれは私の片想いの完成形だった。


 彼女は、いつもどこか死の匂いをまとっていた。薄く微笑みながら、世界に何の期待も希望も抱いていないような顔をしていた。それがまた、よかった。希望を語る人間は、生きていることに酔っている。自分の人生には意味があると、根拠もなく信じている。悲しみも苦しみも物語の途中だと、都合よく思っている。


彼女は違った。最初から物語なんて存在しない、という顔だった。絶望にうっすら化粧したような彼女は、ある種の“本物”のように見えた。凡人には到底真似できない。そう、思っていた。


 ある日、彼女が自慢げに見せてきたチェキを見て、私は言葉を失った。そこに写っていたのは、確かに彼女だったが、同時に彼女ではなかった。いや、正しくは──“隣のアイドルの出来損ない”だった。髪型も、アイメイクも、ポーズも、笑い方すらも、どれもが忠実にトレースされていたのだ。


だが、決定的だったのはSNSだった。文章の癖、絵文字の使い方、話題の選び方。全部、彼女のものではなくて、かのアイドルがネットに落としたものを拾い集めていただけだった。あの瞬間、私は気づいてしまったのだ。私が“本物”だと思っていた彼女は、最初からただのコピーにすぎなかったことに。それに気づいてしまった途端、彼女がひどく凡庸に見えた。そして私は、どうしようもなく失望した。


同時に、自分の方がよほど滑稽だったと思い知らされた。私は彼女っぽい振る舞いを取り入れ、彼女の言葉にいちいち共鳴していた。つまり私は純度の低い、模造品の模造品だった。いよいよ“本物”から遠ざかっている。だが、それは少しだけ私を救った。所詮みんな同じ。オリジナルの顔を持たぬ者同士、私たちはたしかに、よく似合っていたのだ。


 いま思えば、あれはひどく自意識過剰な青春だった。誰もが、自分こそが特別だと信じていて、その証明に他人を巻き込まずにはいられなかった。そんな実験を、毎日、真剣に繰り返していた。嘘くさくて、安っぽくて、それでも自分には確かだったあの主張たちが、今では妙に愛おしい。記憶なんて、つくづく勝手なものだ。


 あの頃の私たちは、皆そろって、模倣という名の病に感染していた。しかも、発症している自覚を持たぬまま。彼女とはもう何年も会っていない。SNSでかろうじて繋がっている。特に意味はない。消すほどの嫌悪も、残すほどの情もない。惰性である。


けれど、ときおり流れてくる彼女の投稿を見るたび、ああ、あれは不治の病なのだ、と思う。誰かの言葉を、誰かの口調で語り、どこかで見たような怒りと感動と美意識を、さも自分のもののように飾り立てている。


色ばかりが濃すぎて、もとの形が見えない。輪郭がないから、誰かの線をなぞるしかない。線のない塗り絵など、誰も見向きしないから。私たちはただ、自分という型紙を失くした子供だったのだ。今もなお、それを取り戻せず、大人ぶった子供のまま、画面の中で色を塗り続けている。


──いや、こうして昔を語って、悦に入っている私自身、今もたぶん、誰かの言い回しをこっそり拝借しているのだろう。自分の声が見つからないから、他人の言葉を切り貼りして、少しひねって、あたかもそれが“私の思想”であるかのように装っている。ああ、なんて、みっともない。


結局のところ、誰もがどこかで拾ったものを“自分”として売り出し、既製品みたいな“らしさ”で個性を気取っては、自信満々に踊っている。似たり寄ったりの茶番を、みんな嬉々として演じているのだ。それを冷笑することでしか、自分の輪郭を保てない私もまた、同じ舞台の片隅で踊る役者にすぎない。


始末に負えないのは、その茶番に自ら加担しているという事実を、したり顔で理解してみせる浅はかさを、自分の賢さだと思い込んでいる点だ。模倣を嘲る模倣。自覚していることが免罪符だとでも言わんばかりに、恥にうっすらと美意識の粉をまぶして、沈んでいく。ここにあるのは知性ではなく、ただの自己陶酔である。ここまでくると、もはや病名すらつかない。私は今日も、症状に気づかないふりをしたまま。

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