第十二章 灰蛇の地へ
第一節 蒼茫
夜明け前の風が、まだ暗い草原を静かに渡っていた。
リューク地方、東端の断崖近く。
そこにひっそりと佇む石造りの前哨拠点には、既に複数の影が集っていた。
「……よく来てくれたな」
焚き火の前に立っていた男が、軽く顎を上げて応じた。
レオン・ヴァルハルト。監査隊の隊長にして、フィールド作戦の実動指揮官である。
「間に合ってよかったよ、ほんとに」
リュカが微笑み、荷馬車から飛び降りる。
「レオンさん!」
エレネアが小走りに駆け寄ると、彼は少し驚いたように目を見開いた。
「おまえ……顔つきが変わったな」
「うん。少しだけ、覚悟ができた」
「……そうか」
レオンは笑いはしなかった。ただ、軽く肩を叩く。
その手は、何かを確かめるように温かかった。
「今夜、月が隠れたら動く。奴らの監視網は思ったより狭い。グレイの連中は“内側”の動きばかり気にしてるらしい」
「……内部で何か起きてるの?」とサフィアが訊いた。
レオンは頷く。「魔鉱石兵器の小型実験を行っているようだ。すでに三箇所、焦げ跡と“魔力干渉による歪曲”が確認されている。まるで空間が焦げたような……」
「……魔導塔も、グリーンパレスも無事じゃ済まない」ティアナが息を呑んだ。
「だからこそ、お前たちを呼んだんだ」
レオンはサフィアとティアナ、そしてエレネアへと視線を送る。
「これは、俺たちだけじゃ止められない」
「わたしたちも、そのつもりで来ました」ティアナが静かに答えた。
すると、馬車の荷台に控えていた案内人が歩み出る。学院から派遣された者らしい、淡い青の外套をまとった若い女性だ。
「出発は月が隠れ次第。目標地点までは徒歩で二時間。潜入経路は以前ルシアナ様が使用していた脱出口跡を経由します。……ただし、使われていれば、罠もあると考えてください」
一瞬、空気が張り詰める。
「なら尚更、慎重に進むべきだな」リュカが言った。「今回は“証拠”を押さえるのが目的。あくまで対話の余地を残す。必要なら破壊するが……、それは最後だ」
「了解」レオンが頷く。
そのとき、風が草原を撫でた。
「風穴の気配……遠いようで近いね」
エレネアがぽつりと呟いた。
その言葉に、誰もが一瞬だけ目を伏せた。
だが次の瞬間、リュカが冗談めかして言った。
「いいか、ここからは“潜入作戦”だ。命令違反と見なされたら、レオンにお仕置きされるからな?」
「……はいはい。言われなくても、ね」ティアナがふっと笑った。
そして──
「では、各員配置へ」
レオンの号令が、夜の空へと消えていった。
空に浮かぶ月が、雲に覆われた。
出発の刻が、来た。
第二節 灰の記憶、紅の誓い
闇の中に、風の音だけが通っていった。
鉄と土の混ざった匂い。石壁のひび割れ。かすかに灯る魔石灯の青白い明かりが、地下道の湿気に滲む。
ルフェリエル姉妹、エレネア、そして監査隊の精鋭たちは、旧グレイ・ヴァイパーの実験施設――その裏手から続く地下通路を進んでいた。
その足取りは静かだが、誰の心にも張り詰めた緊張が走っている。
エレネアは歩を進めながら、ふと立ち止まった。
壁のひとつに、かすかに刻まれた印を見つけたからだ。
それは、三日月と星の意匠――
赤と黒で織られた「煉の月印(れんのげついん)」に酷似していた。
その瞬間、空気が変わった。
〈痛み〉が走った。
胸の奥、過去の傷が――疼いた。
視界が滲む。喉が詰まる。誰かの声が遠くなる。
「……っ、う……」
エレネアの呼吸が乱れた。魔力の流れが、かすかに軋む音を立てる。
かつて、自分が「ただの被験体」でしかなかった場所。
名前を奪われ、記憶を封じられ、ただ術式に組み込まれていた日々。
その断片が、無意識に蘇る。
「……エレネア」
その時、サフィアの声が響いた。
短く、静かに。けれども、確かな強さを持って――
「……ぼくが、いるよ」
その言葉に、魔力のざわめきが少しずつ沈んでいった。
まるで、冷えた鉄に暖かな風が吹いたように。
エレネアはゆっくりと目を閉じた。
そして、震える吐息をひとつ、吐き出した。
「……ありがと。もう大丈夫」
彼女の声は、弱さを帯びていたが、確かに前を向いていた。
その時、先行していた監査隊の兵士が、手を上げた。
「接触……! 見張りがいます、三人!」
グレイ・ヴァイパーの兵装をまとった小隊が、こちらに気づきかけていた。
エレネアは一歩、前に出た。
「任せて」
静かに詠唱する。
魔力が右手から左手へ、そして空気へと流れる。
紅の光と青の紋が絡み合い、ひとつの円環を描いた。
「《赤の連鎖(レッド・コンバージェンス)》」
その瞬間、赤と青の魔力が収束し、波動となって迸った。
見張りの兵たちは、爆風とともに魔力の網に捉えられ、一瞬で拘束される。
力任せではない。破壊だけでもない。
正確で洗練された、赤魔導士の魔法。
――彼女は、もう逃げない。
過去に、そして自分自身に向き合うために。
後ろから聞こえたサフィアの声は、どこか嬉しそうだった。
まるで、自分の大切な何かが前に進みはじめたように。
エレネアは、静かに微笑んだ。
ほんのわずかに。けれど確かに。
第三節 影を裂く月
闇が降りる。グレイ・ヴァイパーの地下制御室。
その中心に立つ男の背は、どこか寂しげに見えた。
白銀の髪を揺らし、深紅の装束を纏い、仮面のような笑みを浮かべる男。ロキ=クロエ=ヴィス。
そしてその目前、床には無力化された魔導端末が転がっていた。
「……やはり来たね、紅の守人たち」「初めまして…の方もいるのかな。私はロキ=ヴィス、お初に」
ロキは振り返ることなく、背後に気配を感じ取っていた。
レオンが無言で剣を構える。リュカは肩越しにサフィアとエレネアを庇いながら、低く声を放つ。
「お前が、グレイ・ヴァイパーの…逃げられないぞ、ロキ。これ以上、何を望む」
「逃げる……? ふふ、王子。あなたは相変わらず、言葉の定義が甘い」
その言葉にサフィアが一歩踏み出す。
「ここで何をしてるの……!」
ロキはようやく振り返った。金の瞳が、全員を見渡す。
「目覚めの準備さ。……“彼ら”をもうこれ以上、眠らせておくのは酷というものだろう?」
そして、リュカへと視線を据える。
「セラフィム……目覚めさせたいのだろう?また彼女の声を聴きたいと思うだろう。あのとき、どうして、と悔恨しているのだろう?レオン、リュカ。
ならば君たちは、ここで手を引くべきだ」
リュカの表情が曇る。サフィアが息を呑む。
その名をロキが口にした瞬間、空気がわずかに震えた。
「……貴様、その名を軽々しく」
レオンが剣を一歩進めた瞬間。
がらん――
鉄の音が響く。天井の格子が鈍く音を立てて崩れ、重い影が床に降り立つ。
「――汚れ仕事は、どうもお任せされがちでしてね」
現れたのは、漆黒の外套に身を包んだ男。
蛇のように笑い、刃を舐めるような視線を走らせる。
「お久しぶりです、皆様。お忘れかもしれませんが、ヴァッヘです」
その名に、エレネアの身体が微かに震えた。
「お前……まだ生きて……!」
「ええ、見ての通りしぶとくて。ロキ様には可愛がってもらってまして」
ロキは軽く笑うと、壁際の端末へと指を滑らせた。
低く、振動音が響く。 何かが、起動した。
「もうすぐ――漆黒の飛行艇が到着する。私の役目は、ここまでだ」
「逃がすものか!」
レオンが踏み込み、リュカも叫ぶ。
「ロキッ!」
しかしそのとき、ロキはふと呟いた。
「紅の守人……器と鍵が同じ空間に揃うとは。滾りますねぇ……」
「ヴァッヘ、わかるね。後は任せたよ。私はここからは別行動をとる。再会を楽しみに待つよ」
そして――振り返りざま、ティアナを見た。
「ルフェリエル姉妹。あなた方の母上、ルシアナ=ルフェリエルの死因をお知りになりたいのなら――“煉の月印”を、よく調べることだ」
その言葉にティアナの表情が変わる。
ロキはそれを確認し、満足げに微笑んだ。
「さて、“役者”は揃った。次の幕へ参りましょう」
そして、壁が開く。
轟音と共に黒い飛行艇が姿を現す。
漆黒の機体に、紅の紋章――三日月と星。
それを背に、ロキは数名の幹部と共に乗り込んだ。
「止めたいのなら……“塔”で待つとしよう。あの“蓋”が外れれば、すべてが始まるのだから」
その言葉を最後に、飛行艇は煙を撒き上げながら離脱していった。
誰も、止められなかった。
その場には、静寂と、残された言葉だけが残った。
飛行艇が闇に溶けたあと、ヴァッヘはその場に残された。
誰も言葉を発せず、ただ静かに剣を構える。
ヴァッヘは一歩だけ前へ出た。
「……あなたたちは、ロキ様の言葉に、お気づきにならないのですか?」
誰も答えない。
「ならば、はっきりと申し上げましょうか。“煉の月印”の意味を……」
「やめろ」
ティアナが声を発した。その声には怒りと震え、そして“恐れ”が混じっていた。
だがヴァッヘはにやりと笑う。
「姉君――ああ、しかし、サフィア様がそれを口にしてくれるかと思ったのですが」
視線がサフィアに向く。
サフィアの足が、ぴたりと止まる。表情がわずかに曇った。
「……え?」
サフィアの瞳が、ふと虚空を見つめる。
何かに、思い当たったかのように。
――手記のこと。
――赤と黒で描かれた三日月と星。
――ティアナが何も言わずに、あるページだけを閉じたままだった理由。
そのすべてが、線となって繋がる直前。
「黙れッ!!」
ティアナの声が跳ねると同時に、彼女の魔導式が輝いた。風を裂くような衝撃波が、ヴァッヘに叩きつけられる。
ヴァッヘはそれを寸前で受け流す。黒い刃を振るい、弧を描くように後退。
「流石、ルフェリエルの血……ですが、それでは足りません」
瞬間、地面が爆ぜる。ヴァッヘが影のように走る。
エレネアが詠唱を唱えた。紅の魔力が空気を割り、突風と爆炎が交差する。
その爆発の中、ヴァッヘの外套が裂ける。
「……っ、こいつ、速い!」
レオンが剣を振るう。リュカが前衛へ出て迎え撃つ。
「囲め!油断するな、こいつは――!」
「死すら恐れない」
リュカの言葉に、ヴァッヘは笑う。
「その通り。私の魂は、とうの昔にロキ様に差し出したのです」
黒い魔法が、地から噴き出す。毒霧、幻覚、圧力。サフィアが魔力の障壁で防ぐ。
「エレネア、右!」
「……っ、了解!」
エレネアの詠唱が終わる。紅い封陣が地に刻まれ、そこから蛇のように雷が走った。
ヴァッヘの脚が一瞬止まり、レオンの斬撃が肩を貫いた。
だが――
「惜しい……ですが、これでは終われないのです」
ヴァッヘが呻きながら立ち上がる。その目は濁り、既に人としての意思の光を持たぬ。
「終われるわけがない。私は、あの日から死んでいるのだから……!」
ティアナが叫ぶ。
「……だったら、せめて、母のために!」
雷が、再び地を這い、光が爆ぜた。
その中心で、ヴァッヘは静かに崩れ落ちた。
誰も、言葉を出せなかった。
エレネアは目を伏せた。
サフィアは静かに彼女を見つめ、かすかに言った。
「……エレネア、ぼくがいるよ」
その一言が、静かな波紋を広げた。
――赤と黒の器と鍵。
――血と罪の記憶。
誰もが、次に進む覚悟を問われていた。
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