第十章 揺れる秤(はかり)

第一節 慟哭

王都グリーンパレスの南にある高台、そこに建つ白い塔。ルフェリエル邸の一室に、重苦しい空気が流れていた。


 ティアナは一枚の封書を机に置き、沈黙していた。

宛名は「ルフェリエル姉妹」。差出人の印章には、厳格な学院の象徴――《青炎の翼》が封蝋として押されていた。


ティアナが封を切ると、中からは羊皮紙の書状が現れる。筆跡は均整が取れ、事務的で、無味乾燥な文体。しかしその内容は、無視できない力を伴っていた。


***


拝啓 貴姉妹の平素のご精励、学院一同心より感謝申し上げます。


つきましては、王都学院・査問局より協議の招集を申し上げます。


本協議は任意参加を原則とするものでありますが、貴姉妹に関わる事案につき、速やかな対応が望まれます。


同封の座標にて、三日以内にご出席を願います。


なお、無応答の場合には学院法第十六条に基づく特別聴取への移行を検討いたします。


敬具


王立魔導学院 査問局筆頭 ラステ・カロン


***


「……ふうん。じゃあ、行かないと、ってことかな?」


「サフィ……」


ティアナが視線を向けたとき、サフィアは笑っていた。いつものように、少しだけ背伸びしている、けれど軽やかな微笑み。


「大丈夫だよ。そうでしょ?ぼくの魔力、学院にちゃんと見てもらえば、きっと納得してくれるはず」


「それは……そうだけど……」


ティアナの言葉に曖昧な揺らぎが生まれた。その微細な空白に――


 「サフィア……無理しないで。行きたくなければ――」


 「行くよ」


 その一言は、あまりにも自然に、静かに放たれた。

 だがその響きには、どこか張り詰めた糸のような危うさがあった。


 数日後――王立魔導学院の西翼、謁見の間に似た広間。

 そこには、学院上層部の者たちが静かに控えていた。

 大理石の床。古代文字が浮かぶ天井。円卓の中心に結界装置が静かに脈動している。


 そこに遅れて現れたのは、黒衣の男。

 整えられた口髭。背筋の伸びた長身。

そして鋼の意志を感じさせる灰色の瞳。


 王立魔導学院・査問部筆頭、ラステ・カロン卿。

ラステ・カロンの名は王都では重みを持って響いていた。


 学院査問部の筆頭にして、王家より叙勲を受けた魔導騎士。規律と秩序を重んじ、情を表に出すことのない男。


 彼はサフィア、ティアナ姉妹を前に、礼を欠くことなく軽く頭を下げた。

 「ご多忙の中、恐縮ですが」

 ラステ卿は無表情のまま言った。

 「本日は、学院査問部より協議会への正式な出頭命令をお伝えに参りました」


 ティアナが唇を固く結ぶ。ラステ卿は続けた。


 「これは魔導局の承認を得た正式な通知です。……可能であれば、強制ではなく、君たちの理解と協力を得たいと願っています」


 サフィアは視線を伏せたまま、声を発しなかった。


 「……それは、妹を脅しているのですか?」

 ティアナの声は、凍てつくように冷たかった。


 ラステ卿の眉が微かに動いた。だが、その表情に感情は見えない。


 「我々は、彼女の力が国家の安寧に資するかを見極める必要があります」

その語り口は決して威圧的ではなかったが、礼節と“本気”が感じられる圧だった。


「やだ……!!」




唐突に、サフィアの声が跳ねた。


その瞳は、恐怖とも怒りともつかない、感情の渦に染まっていた。




「ティアナと……離れたくないよっ……!」




部屋の空気が、きしりと軋んだような気がした。


「ぼくだって、ぼくだって……人間なんだよ……! 感情もあって……不安にもなるんだよ……!」

部屋が静まった。ラステ卿ですら、言葉を失う。


 「こわいんだよ……。ぼく、何かを壊すかもしれない。壊されるかもしれない。

 魔力なんか……こんなもの、欲しくなかった……!」


 サフィアの中で抑えていた“何か”が、こぼれ出していた。


 それは、〈器〉や〈鍵〉といった呼び名を越えて――

 ひとりの少女としての、むき出しの感情だった。


ティアナは、サフィアを強く抱き締めた。

 「……大丈夫。私が、そばにいる」


 その光景を見て、ラステ卿は、わずかに目を伏せた。

 「……感情の爆発は、魔力の不安定化を招きます。だが……」


 ラステ卿はサフィアをじっと見つめた。


 「それは、確かに“人間”の証でもある」

ラステ卿は目を細めながらも、淡々と口を開いた。

 「……サフィア・ルフェリエル。君の魔力は、もはや一個人が抱えるべき規模ではない。君自身のためにも、今後の王都のためにも、我々と連携し、“制御”の道を学んでほしい」


だがサフィアは、まだ何も答えなかった。

 ただ、姉の腕の中で、ゆっくりと呼吸を整えていた。


――その場には、しばし静寂が流れた。


 サフィアは姉の胸元で震えながら、まだ完全には言葉を取り戻せずにいた。

 ティアナは彼女の背中を、まるで壊れ物を扱うように優しく撫で続けている。

 ラステ卿は、ただ黙ってそれを見ていた。


ラステ卿は目を伏せたまま、誰にも聞こえぬほどの声で、こう呟いた。

「……あの方なら、この場をまとめられるかもしれん」


 そのとき――


 「……査問の場に、これほど澄んだ叫びが響くとは思わなかったよ」


 声がした。


 穏やかで、どこか柔らかく、だが確かに場の空気を変える響き。

 静かに開かれた扉の向こうに、白銀の装束を纏った青年が立っていた。


 リュカ・アルヴェイン。


 王家の血を引きながらも、いずれの派閥にも属さず中立の立場を貫く青年は、まるで予定されていたかのような自然さで一歩を踏み出した。


 「リュカ様……なぜここに……」

 ラステ卿がわずかに眉を動かす。


 「学院査問の場に、王家の者が口を挟むのは筋違いだと承知していますよ。けれど、ひとつだけ誤解を解いておきたくて」


 リュカはそのままサフィアたちの前へ進み、ひざを折って視線を合わせる。

 サフィアの肩に手を添えはしない。ただ、そっと言葉を届けた。


 「――サフィア、君の“声”は、ちゃんと届いたよ。ここにいる、全員の胸に」


 ティアナが驚いたようにリュカを見た。サフィアは、少しだけ顔を上げる。


 「ぼくの、声が……?」


 「そう。誰もが君の力に注目していたけれど……その前に、君自身がどう感じているか、誰もきちんと聞こうとしていなかったんだ」


 リュカの言葉には、誰を責める色もなかった。ただ、ひとつの“視点”を置くだけだった。


 ラステ卿は、目を細めると、少し間をおいて言った。


 「……王家の御子息が、学院の判断に意見されるおつもりですか?」


 リュカは微笑を浮かべ、首を振った。


 「いいえ。ただ、学院も、王家も、魔導局も――誰ひとり、敵ではないことを確認したいだけです」


 その言葉に、空気がすっと変わった。


 「私たちは、今や《グレイ・ヴァイパー》という得体の知れぬ敵に直面している。

 帝国がどこまで関与しているかは不明。サフィアの魔力が何に呼応するのかもまだわからない。


 だからこそ――争っている場合じゃないんだ」


 リュカは立ち上がり、ラステ卿に正面から向き合った。


 「ラステ卿。あなたが規律を重んじる方だということは存じています。

 ですが、それゆえに“例外”というものの価値も、理解しておられるはずだ」


 ラステ卿はわずかに目を伏せ――そして、うなずいた。


 「……我ら学院も、国家の安寧を第一に考えております」


 そして、ティアナに向き直る。


 「ティアナ・ルフェリエル。そしてサフィア・ルフェリエル。学院として、あなた方との連携を模索したいと考えております。

 正式な拘束や聴取ではなく、協議の継続を――王家立ち会いのもとで、提案させていただきます」


 「……ありがとう、ラステ卿」


 ティアナが深く頭を下げる。サフィアは少し戸惑いながらも、小さくうなずいた。


 そして、ラステ卿とリュカは、静かに握手を交わした。


 ――ここにひとつ、脆くも確かな“協力”の灯がともる


第二節 心の底から

 ラステ卿の言葉が一段落し、場に再び沈黙が落ちた――そのとき。


 エレネアが、ふとサフィアを見た。


 視線が絡んだ瞬間、不意に何かが走った。


 冷たい水面に一滴、熱い雫が落ちたような、かすかな衝撃。


 サフィアもまた、ゆっくりとその視線を返す。


 「……なに?」


 小さく問うように、サフィアがつぶやいた。問いかけたのは、声ではなく、瞳だった。


 エレネアは、口を開きかけて――そのまま固まった。


 頭の奥で、何かが軋む音がした。


 (いや……これは――)


 脳裏に、鈍く赤い光の残像がよぎる。冷たい床、錆びた鉄の匂い。誰かが叫んでいる。誰かが泣いている。


 自分だ。泣いているのは、自分。


 (こんな記憶、知らない……)


 足元がぐらりと揺らいだ。思わず膝に手をつき、呼吸が浅くなる。


 「……エレネア?」


 ティアナが気づき、声をかけた。


 「わたし……なにか、思い出し……そうになった」


 自分でも、どこまでが現実で、どこからが幻なのか、判然としなかった。


 だが、サフィアの瞳を見ていたとき、確かに――“共鳴”していた。


 心の奥深く、ずっと閉じ込めてきた何かが、微かに軋んでいた。


 (あの子……サフィアは――怖い)


 ただの強い魔力じゃない。

 “開いてしまう”のだ。何かを、内側から。


 (でも……)


 怖いのに、目を逸らせなかった。涙に似た、透明な感情が胸に広がる。


 (――懐かしい、ような)


 エレネアが再び顔を上げたとき、サフィアもまた、じっとこちらを見つめていた。


 「……だいじょうぶだよ。こわいの、ぼくだって一緒だから」


 その一言に、エレネアの胸が詰まった。


 サフィアの言葉は、子どもじみた、ありふれたものだった。


 だが、どんな理屈よりも、深く、真っすぐに届いた。


 (この子は……自分の痛みを、誰かのために隠してしまう)


 自分を守るように、誰かを守る。


 (……昔の、わたしと同じだ)


 エレネアはほんのわずかに――だが確かに、サフィアへと心を開いた。


 まだ、わずかな隙間だけれど、それは確かに“始まり”だった。


第三節 交差する意志

 場を静かに見渡し、リュカ・アルヴェインは一歩、前へと出た。


 「……ラステ卿。ご多忙のなか、このような機会を設けていただいたこと、感謝いたします」


 穏やかながらも凛とした声が、空気を変える。


 「私は王家の名を預かる身として、監査隊の働きを全面的に支持しています。同時に、王都学院が抱える責任と緊張も、十分理解しています」


 ラステ卿はじっと彼を見つめていた。だが、その目に敵意はない。


 「ですが今――我々の最大の目的は、グレイ・ヴァイパーの封印干渉を阻止すること。その一点において、学院も、監査隊も、そしてルフェリエル姉妹も、立場は一致しているはずです」


 「……協力関係を、築こうというのか」


 ラステ卿が言葉を返す。その声には、かすかに重みが和らいだ気配があった。


 「その通りです。サフィアを“管理”するのではなく、“支える”。そのためにこそ、我々がいるべきです」


 ティアナが目を見開き、サフィアが、はっとしてリュカを見た。


 「ぼくを……支える?」


 「君が何者であれ、人は人だ。支え合うことでしか前へは進めない」

 リュカはそう言って、軽く微笑んだ。


 しばしの沈黙ののち、ラステ卿が深く息をついた。


 「……よろしい。サフィア・ルフェリエルは監査隊の保護下で協議を継続。魔力の変異が見られた場合、学院側が直ちに介入する」


その場に小さく安堵の気配が走った――だが、ラステ卿はそこで言葉を続けた。


「……そして、この措置については、私から魔導局に直接、伝えておく」


 その言葉が落ちた瞬間――

 室内の空気が微かにざわめいた。


 「……ラステ卿が、魔導局に“直言”を……?」

 「前例が……ないわけではないが、まさかご自身で……」


 学院の参席者たちがざわめき、互いに目を交わした。

 普段であれば、査問部筆頭が魔導局へ報告を上げることなど考えられない。

 それを今、ラステ卿自らが担うというのだ。


 しかし、ラステ卿の表情に迷いはなかった。


 「この件は――例外だ。それほどの価値が、この場にはある」


 そう言って彼はリュカとサフィアを見た。


 「この選択が正しいかどうかは、まだわからない。だが、正しさなど後から証明されるものだ。ならば私は、“信じた秩序”に従う」

サフィアは緊張しながらも、小さく頷いた。


 「ありがとう……」


 ティアナもそっと肩に手を置く。


 そして、エレネアがゆっくりと前に出た。


 「……わたしも、今は反対しない。……ただ、見ている。あなたが本当に、壊さないかどうか」


 サフィアは一瞬だけ目をそらし、そして小さく笑った。


 そのとき、ラステ卿が振り返り、扉の方へ向き直った。


 「……ならば、次は“行動”だ。監査隊のヴァルハルト隊長が現地にいる。合流し、次の段階に入る」


 風穴の鼓動が、遠くで響いた気がした。


――学院の協議会が終わった後、ルフェリエル姉妹とエレネアは、一時的に設けられた控室に案内されていた。

高窓から夕光が差し込み、絨毯の上に静かな赤を落としていた。


サフィアは、深く息をついた。


「……なんとか、終わった、かな?」


声に力はないが、笑みを貼りつけるようなこともしなかった。むき出しだった感情は、少しだけ収まっていた。


ティアナがその隣に座る。


「レオンさんのこと……少しは信じていいのかもしれないわね」


「え?」


サフィアがきょとんとして見上げる。ティアナは窓の方を向いたまま、ぽつりと呟く。


「現地に残って、私たちを“盾”にも、“道具”にも使わなかった。

……協議に出席するよう求めたのは、学院だけ」


「レオンさん、行くときに言ってたよ」


エレネアが、背後の壁にもたれたまま口を開いた。


「“理解しようとしなければ、守ることはできない”って」


その声は、ほんのわずか震えていた。


サフィアはエレネアの方を見た。いつものように“おどおど”した感じではなく、どこか澄んだ目をしていた。


「……そんなふうに、言ってたんだ」


「うん。あの人……ちょっと不器用だけど、まっすぐなんだと思う」


ティアナは微笑む。


「じゃあ、私たちもまっすぐ進まなきゃね。次は――“自分の意思で”動く番」


サフィアは、そっと拳を握った。


「うん」


その声には、もう迷いはなかった。

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