第6話 光を貫く決意
霧に沈む神殿の前に立つと、俺は息を呑んだ。
古代の石造りの建造物は、まるで時の流れに忘れ去られたかのように静寂の中に佇んでいた。崩れかけた石柱に刻まれたルーンが青白く発光し、その光は霧の中を幻想的に漂っている。空気が重い。魔力が長い年月をかけて染み込んだであろう、濃密で神聖な気配が肌に纏わりついてくる。
「ここが聖剣の眠る神殿か……」
俺の呟きが霧の中に吸い込まれていく。不思議なことに、この場所に足を踏み入れた瞬間から、既視感とも呼ぶべき感覚が心の奥で蠢いていた。まるで遠い昔、俺がここを歩いたことがあるような。そんな馬鹿な話があるわけないのに、足が勝手に正しい道を覚えているような錯覚に陥る。
さらに奇妙なのは、この神殿の造りそのものが俺に何かを語りかけてくるような感覚だった。石柱の配置、回廊の曲がり角、天井の高さ。すべてが俺の記憶の中にある設計図と合致している。まるで俺がここを設計したかのように。
「黒崎、顔色が悪いぞ」
アリアが俺の様子を心配そうに見つめた。彼女のドラゴンとしての鋭い感覚は、この神殿の異様な雰囲気を敏感に感じ取っているようだった。黒い鱗が微かに逆立ち、警戒心を露わにしている。
「大丈夫だ。ただ、この場所が……何というか、懐かしいような気がしてな」
「懐かしい? お前、ここに来たことがあるのか?」
「いや、そんなはずはない。気のせいだろう」
だが本当に気のせいなのだろうか。俺の心の奥で、何かが蠢いている。記憶の底に沈んでいた何かが、この神殿の存在によって揺り動かされているような感覚だった。
レイナが軽やかな足音を響かせながら俺たちに追いついてきた。しかし彼女の表情も、いつもの軽薄さが影を潜めている。
「ねえ、この神殿って相当ヤバくない? 空気が重すぎて息が詰まりそうよ」
「聖剣が眠る場所だ。只の遺跡ではないということだろう」
「でもさ、何で聖剣がこんな辺鄙な場所に? 普通なら王宮とか、もっと立派な場所にあるもんじゃない?」
レイナの疑問は的を射ていた。確かに、なぜ聖剣がこのような人里離れた場所に封印されているのか。そこには必ず理由があるはずだった。
俺は刑事時代の癖で、無意識に腰の剣の柄に手を置いた。危険を感じた時の反射的な行動だ。しかし今持っている剣では、この神殿に潜む何かに立ち向かうには心もとない。俺たちが求める聖剣こそが、真の武器となるはずだった。
神殿の入り口は巨大な石の扉で封じられていたが、アリアのドラゴンの力で容易に開かれた。扉が軋みながら開くと、内部から冷たい風が吹き出してくる。その風には、何世紀もの間閉ざされていた空気の匂いが混じっていた。松明の明かりではなく、壁に刻まれたルーンの青白い光だけが頼りだった。
回廊は予想以上に複雑で、魔術の罠が至る所に仕掛けられていた。俺の観察力、レイナの盗賊としての技術、アリアの魔力感知能力を総動員して、一つ一つの罠を慎重に解除していく。床が崩れ落ちる仕掛け、壁から飛び出す矢、天井から落ちてくる巨石。どれも一歩間違えば命に関わる危険なものばかりだった。
しかし俺は気づいていた。これらの罠は、確かに命に関わる危険なものだが、本当の意味での「殺意」は感じられない。まるで侵入者を試しているような、そんな印象を受けた。
「くそ、誰がこんな面倒な罠を……」
レイナが額の汗を拭いながら呟く。
「相当な魔術師の仕業だな。しかも、かなり昔に作られた物らしい」
アリアが罠の魔術的痕跡を調べながら答えた。
「ねえ、気づいた? この罠、本気で殺そうとしてない」
レイナの指摘に、俺は頷いた。
「ああ、俺も同じことを考えていた。これは罠というより、試練なんだろうな」
そしてついに、俺たちは神殿の最深部へと辿り着いた。
円形の大広間の中央に、白い石で作られた祭壇があった。その祭壇に、一振りの剣が刺さっている。剣身は透明に近い青色で、柄には複雑な文様が刻まれていた。そして剣全体から放たれる青白い光は、まさに神々しいという表現がふさわしかった。
「あれが聖剣……」
俺は祭壇に向かって一歩踏み出した。その瞬間、祭壇の足元に刻まれた文字に気がついた。古代文字で書かれているが、なぜか俺にはその意味が理解できた。
『血は鍵、痛みは刃、愛は呪い。この剣を抜く者よ、世界を選べ』
この詩的な文章に、俺は既視感を覚えた。いや、既視感ではない。どこかで見たことがあるような文体、言い回し。そして俺の脳裏に、一つの名前が浮かんだ。
「アシュヴィン……」
祭壇の反対側を回り込むと、もう一つの碑文があった。こちらも古代文字だったが、俺にはその意味が分かった。
『この剣、【蒼天の断罪者エルフェイン】は、千年の昔より世界を二度救い、三度目に拒まれし者の手に堕ちん。真なる心持つ者のみ、その刃に宿りし正義の光を宿すべし』
「エルフェイン……蒼天の断罪者」
俺は聖剣の固有名を口にした。その響きが、なぜか心に深く染み入ってくる。
「何?」
アリアが俺の呟きに反応する。
「この文章、アシュヴィンが書いたものじゃないか? それに、この聖剣には名前がある。エルフェイン。蒼天の断罪者と呼ばれているらしい」
アリアが祭壇の文字を見て、顔を青ざめさせた。
「確かに……彼の文体だ。まさか、アシュヴィンがここに?」
「過去に、だろうな。恐らく聖剣を狙って、ここまで来たことがあるんだ」
碑文によれば、この聖剣エルフェインは過去に二度、世界を救ったという。しかし三度目は「拒まれし者の手に堕ちん」とある。だとすれば、なぜアシュヴィンは聖剣を手に入れなかったのか。答えは簡単だった。聖剣が彼を拒んだのだ。この剣は、選ぶ者を選ぶ。そういうことなのだろう。
「でも、拒まれた者が手にすると何が起こるんだ?」
レイナの質問に、俺たちは顔を見合わせた。それは誰にも分からない。しかし碑文の文言からすると、ろくなことにはならないだろう。
俺は祭壇に近づいた。エルフェインの青い光が、俺の接近に反応してより強く輝き始める。まるで俺を歓迎しているかのように。しかし剣に手を伸ばそうとした瞬間、突然視界が歪み、意識が別の場所へと飛ばされた。
気がつくと、俺は見覚えのある倉庫にいた。三年前のあの日。俺の人生を変えた、忌まわしい記憶の中だった。麻薬密売組織の摘発作戦。俺の判断ミスで部下の田中が撃たれ、命を落とした現場だった。
「田中、待て! 一人で突入するな!」
俺は必死に叫んだ。しかし田中は俺の制止を振り切り、倉庫の奥へと向かっていく。そして銃声。田中が血を流して倒れる光景。
だが今度は違った。田中が倒れても、場面は巻き戻される。再び俺は倉庫の入り口に立ち、田中に指示を出している。今度こそ、彼を救おうと必死になる。しかし結果は同じ。田中は死ぬ。
何度も、何度も、同じ場面が繰り返される。俺がどんなに違う指示を出しても、どんなに違う行動を取っても、田中は必ず死ぬ。五回、十回、二十回。ループは果てしなく続き、俺は徐々に絶望感に支配されていく。
そのループの中で、田中の表情が次第に変わっていった。最初は俺に感謝の言葉をかけていた田中が、次第に俺を責めるようになる。
「黒崎さん、なぜもっと早く来てくれなかったんですか?」
「黒崎さん、なぜ俺を先に行かせたんですか?」
「黒崎さん、俺の死はあなたのせいです」
そして遂に、田中の声が完全に別のものに変わった。それはもはや田中の声ではなく、冷たく知性的な、アシュヴィンの声だった。
「無駄だ、黒崎」
田中の姿をしたアシュヴィンが、冷笑を浮かべながら俺を見下ろしていた。
「お前がどんなに足掻いても、運命は変えられない。正義? それで誰が救えた? 世界は腐敗し、無辜の人間が苦しんでいる。お前にできることなど、何一つない」
「違う……俺は……」
「お前は弱い。無能だ。部下一人守れない男が、何を守れるというのか? アリアを? レイナを? 笑わせるな」
アシュヴィンの言葉が胸に突き刺さる。確かに俺は田中を救えなかった。刑事として、正義を掲げながら、大切な部下一人守れなかった。俺に何ができるというのか。
「そうだ……俺は無力だ。何もできない……」
その時、幻影の中に別の声が響いた。女性の声だった。
「黒崎、諦めるな! お前はそんな男じゃない!」
レイナの声だった。しかし俺の意識は幻影に深く囚われている。
「黒崎!」
今度はアリアの声が、より強く、より鮮明に聞こえてきた。
「聞こえるか、黒崎!」
アシュヴィンが振り返り、苛立ったような表情を見せる。
「邪魔をするな、竜の娘よ。こいつの心は既に闇に飲まれている」
「黒崎、あんたって案外弱いのね! でも、それでもあんたは私たちを守ろうとした! それを忘れるな!」
レイナの声が幻影を貫いてくる。
「私もすべてを失った!」
アリアの声が、今度ははっきりと聞こえた。彼女の声には、今まで聞いたことのないような必死さが込められていた。
「だから分かる。過去は痛みだ。一族を失った時、私も絶望した。自分を責め続けた。もう二度と何も愛さない、そう思った。……けれど今、お前がこの剣を握らなければ、私も、お前自身も、二度と何も守れない!」
アリアの必死な叫びが、俺の心を揺さぶる。彼女もまた、俺と同じように大切なものを失った。しかし彼女は絶望に屈することなく、立ち上がろうとしている。俺も、立ち上がらなければならない。
「お前に何ができる?」
アシュヴィンが再び俺を嘲笑する。
「弱者を救う? 世界を変える? 所詮は綺麗事だ。現実を見ろ。この世界に正義などない」
「確かに俺は弱い」
俺は顔を上げてアシュヴィンを見据えた。
「田中を救えなかった。それは一生背負っていく十字架だ。でもだからこそ、今度は違う。今度こそ、俺は大切な人たちを守り抜く」
「綺麗事を……」
「綺麗事上等だ」
俺は立ち上がった。
「俺は刑事だった。法と正義を信じて生きてきた。その信念が間違っていたとは思わない。田中も、そんな俺を信じてくれていた」
その時、幻影の田中の姿が元に戻った。彼は俺に向かって微笑みかけている。
「黒崎さん、俺のことは気にしないでください。あなたは間違っていない。今度こそ、大切な人を守ってください」
「田中……」
俺は彼に向かって深く頭を下げた。
「すまなかった。でも今度は違う。今度こそ、俺は諦めない」
その瞬間、幻影が霧のように消えた。俺は再び祭壇の前にいた。アリアとレイナが心配そうに俺を見つめている。
「黒崎、大丈夫か? 急に倒れて……」
アリアの声に安堵の色があった。
「どのくらい……」
「十分ほどだ。呼んでも答えなかった」
「すまない、心配をかけた」
俺は改めて聖剣エルフェインに手を伸ばした。今度は何の抵抗もなく、柄を握ることができた。剣を祭壇から抜くと、青白い光が神殿全体を包み込む。その光は温かく、力強く、俺の心の傷を癒してくれるようだった。
「これがエルフェイン……蒼天の断罪者」
手に取った剣は、不思議なほど軽く、まるで俺の腕の延長のように感じられた。刀身を流れる光は、俺の鼓動に合わせて明滅している。この剣となら、どんな敵にも立ち向かえる。そんな確信が湧いてきた。
そして俺は理解した。なぜこの剣がエルフェイン、蒼天の断罪者と呼ばれるのかを。この剣は単なる武器ではない。正義への意志、仲間を守る決意、そういった精神的な力を物理的な力に変換する触媒なのだ。
「聖剣って、もっとピカピカのやつかと思ったけどさ」
レイナが俺の持つ剣を眺めながら言った。
「……似合ってるじゃん、刑事さん。なんか、最初からあんたのものだったみたい」
「ありがとう、レイナ」
確かに、この剣は俺のために作られたかのようにしっくりと手に馴染んだ。まるで長年使い慣れた相棒のように。
アリアは何も言わず、静かに俺の前に立った。そして躊躇いがちに、俺の手を握る。彼女の黒い鱗が、聖剣の光に照らされて青く輝いていた。
「黒崎……」
「何だ?」
「……私は、お前を信じている。お前になら、きっと世界を救うことができる」
アリアのその言葉が、俺の胸を熱くした。彼女の信頼を裏切るわけにはいかない。このエルフェインと共に、俺は彼女を、そしてこの世界を守り抜く。
神殿を出ると、夕日が霧を染めていた。オレンジ色の光が石柱を照らし、幻想的な景色を作り出している。俺たちは少し離れた場所にキャンプを張ることにした。
焚き火を囲んで座りながら、俺は今日のことを振り返っていた。幻影の中で見た田中。そしてアシュヴィンの精神攻撃。あれは単なる幻ではなく、実際にアシュヴィンが俺の心を操作していたのかもしれない。
「アシュヴィンも、かつてはこの神殿に来たことがあるんだな」
俺が呟くと、アリアが頷いた。
「祭壇の詩は、確実に彼の筆跡だった。しかしエルフェインは彼を選ばなかった」
「なぜだろうな」
「……恐らく、彼の心が既に闇に支配されていたからだろう。碑文にあった『拒まれし者』というのは、彼のことかもしれない」
レイナが焚き火の火を弄びながら言った。
「でも、黒崎は選ばれた。それって何か意味があるんじゃない? あの碑文によると、エルフェインは千年の間に二度世界を救ったらしいし」
「三度目の危機が、今ということか」
「そういうことになるわね。で、黒崎が三人目の英雄ってわけ」
英雄。俺がそんな大それた存在になれるのだろうか。しかしエルフェインが俺を選んだのは事実だ。この剣に託された使命を、俺は果たさなければならない。
夜が更けていく中、俺たちは交代で見張りをすることにした。最初は俺の番だ。レイナとアリアが毛布にくるまって眠りにつくのを見送り、俺は焚き火の前でエルフェインを磨いた。
剣身に自分の顔が映る。三年前のあの日から、俺は随分変わった。異世界に来て、ドラゴンの少女と出会い、盗賊の女と旅をするようになった。そして今、伝説の聖剣を手にしている。人生とは本当に不思議なものだ。
しかし同時に、重い責任も感じていた。エルフェインを手にしたということは、俺が世界を救わなければならないということだ。アシュヴィンという強大な敵と戦い、彼の野望を阻止する。それが俺に課せられた使命なのだろう。
「黒崎」
アリアが毛布から顔を出して、俺を呼んだ。
「眠れないのか?」
「少し……お前は、後悔していないか?」
「何を?」
「私と関わったことを。私といると、危険ばかりだ。そして今度は、世界を救うという重荷まで背負わされた」
俺はアリアを見つめた。焚き火の光が彼女の顔を照らし、その瞳には不安の色が浮かんでいる。
「後悔なんてしていない。むしろ、君と出会えて良かったと思っている」
「……本当か?」
「ああ、本当だ。君がいなければ、俺はきっと過去に縛られたままだった。エルフェインも手にできなかっただろう」
それは本心だった。アリアとの出会いが、俺を変えてくれた。彼女がいなければ、俺は今でも田中の死に囚われ、自分を責め続けていただろう。
「でも、重いだろう? 世界を救うなんて」
「確かに重い。でも一人じゃない。君がいる。レイナもいる。そしてエルフェインもある。これだけあれば、きっと何とかなる」
アリアは安心したような表情を見せ、再び毛布にくるまった。その寝顔を見ながら、俺は改めて決意を固めた。彼女の笑顔を守ること。それが俺の新しい正義だ。
夜風が焚き火の炎を揺らし、エルフェインの光がそれに合わせて明滅する。遠くで夜鳥が鳴き、葉擦れの音が響く。平和な夜だった。しかしこの平和も、アシュヴィンの計画が成功すれば失われてしまう。
俺はエルフェインの柄を握り直した。この剣に託された使命を、俺は必ず果たす。アシュヴィンがどんなに強大な敵であっても、俺には仲間がいる。アリアとレイナ、そしてエルフェイン。これだけあれば、どんな困難も乗り越えられる。
星空を見上げると、無数の星が瞬いていた。田中も、あの星の向こうから俺を見守ってくれているだろう。今度こそ、大切な人を守り抜く。そう心に誓いながら、俺は夜の見張りを続けた。蒼天の断罪者エルフェインの光が、俺の決意を静かに照らしていた。
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