第5話 星に語る傷跡
湖面に映る星空が、まるで二つの世界を繋ぐ鏡のように揺らめいている。焚き火のオレンジ色の光が俺たちの顔を照らし、薪の爆ぜる音が静寂を破る。遠くで蛙の鳴き声がのどかに響き、時折り夜風が湖面を撫でて小さな波紋を作る。
「今日はよく眠れそうだな」
俺は焚き火に薪をくべながら、アリアとレイナを見回す。レイナは早々と毛布にくるまって横になったが、毛布の端から片目だけ覗かせて火を見つめている。いつもなら軽口の一つでも叩きそうなものなのに、妙に静かだ。
アリアは湖の方を向いて座り込み、膝を抱えたまま動かない。月光に照らされた彼女の横顔には、いつもの気高さの中にどこか脆さが混じっている。
いつもと様子が違う。何かが引っかかる。
「アリア?」
声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。その瞳には深い憂いが宿っていて、まるで遠い記憶の底を覗き込んでいるようだった。
「…星がよく見える夜だな」
そんな答えになっていない答えを返しながら、再び湖面に視線を戻す。水面に映る星々を見つめる瞳が、どこか虚ろに見えた。
俺は彼女の隣に腰を下ろす。言葉をかけるべきか、それとも黙っていた方がいいのか。刑事時代、被害者の家族と話すときに学んだことがある。無理に聞き出そうとするよりも、話したくなるまで待つ方がいい場合もあるのだ。
暫くの間、二人とも無言で星空を見上げていた。天の川がくっきりと見え、無数の星が瞬いている。こんなに美しい星空は、元いた世界では見たことがなかった。都市の灯りに邪魔されることなく、宇宙の全てが手に取るように見える。
風が湖面を撫でて、小さなさざ波が立つ。その音が、まるで誰かの溜息のように聞こえた。
「クロサキ」
不意にアリアが口を開いた。声は普段よりもずっと小さく、まるで自分自身に語りかけるような響きがある。
「君は…なぜ私を」
言いかけて、彼女は口を閉ざす。俺の方を見ようとして、やめて、また湖面に視線を向けた。その仕草に、何かを必死に堪えている様子が見て取れる。
「何だ?言いたいことがあるなら聞く」
「いや…そうではない」
アリアは自分の膝を抱く腕に、より力を込める。
「ただ…君は不思議な人だと思っただけだ」
「不思議?」
「初めて会ったとき、私は君を侵入者だと言って攻撃した。普通なら逃げ出すか、反撃するかするはずなのに」
アリアの声に、かすかな震えが混じる。
「君は私を見て、『君を傷つけたくない』と言った。なぜだ?」
その問いかけには、単純な疑問を超えた何かが込められている。まるで、自分自身の価値を測りかねているような、そんな切実さがあった。
「…そうだな」
俺は少し考えてから答える。正直に言うべきだろう。
「君の瞳を見たからかもしれない」
「私の瞳?」
「ああ。怒りと悲しみで満ちていた。でも、その奥に…」
俺は言葉を選ぶ。
「孤独があった。俺にはそれが分かったんだ」
アリアが振り返る。その瞳に、驚きと戸惑いの色が浮かぶ。
「君にも…同じものを見たことがあるのか?」
「ああ」
俺は自分の手を見つめる。刑事として多くの事件を担当し、様々な人間を見てきた。被害者も、加害者も。そして気づいたことがある。
「人の痛みを見過ごせない性分なんだろうな、俺は。それが刑事になった理由でもあるし、時には…」
声が途切れる。あの日の記憶がよみがえる。
「時には重荷にもなる」
「重荷…」
アリアが呟く。その声には、何かに共感するような響きがあった。
「ああ。助けられない人がいると、自分を責めてしまう」
俺は苦い記憶を思い出す。あの日、爆発で命を落とした部下のことを。
「俺にも、助けられなかった人がいる」
その告白に、アリアの瞳が見開かれる。彼女は完全にこちらを向き直り、俺の言葉を待っている。
「部下だった。まだ二十代の若い刑事でな。正義感が強くて、真面目で…俺よりもよっぽど立派な人間だった」
俺は焚き火を見つめる。炎が揺らめき、記憶の中の光景がよみがえる。彼の笑顔、真面目な表情、最後に見た困惑した顔。
「危険な現場だった。爆発物の可能性があるって分かってたのに、俺は彼を行かせた。経験を積ませてやりたかった。でも…」
声が詰まる。あの日の爆発音が、今でも耳に残っている。破片が飛び散る音、崩れ落ちる瓦礫の音、そして静寂。
「俺が代わりに行けば良かった。そうすれば、彼は今でも…」
「クロサキ」
アリアの声が俺の独白を遮った。彼女の声には、優しさと同時に深い理解が込められている。
「それは…君のせいではない」
「理屈ではそうだ。でも現実は変わらない。俺は彼を救えなかった」
俺は拳を握る。あの時の無力感が、今でも胸を締め付ける。
「毎晩夢に見るんだ。彼が俺を見つめて、『なぜ助けてくれなかったんですか』って」
アリアは長い間黙っていた。風が湖面を渡り、波の音だけが聞こえる。やがて彼女は小さく息をついた。
「…私も同じだ」
その言葉は、湖面を渡る風のように静かに響いた。
「え?」
「私も、誰も救えなかった」
アリアは立ち上がり、湖の方へ歩いていく。その後ろ姿には、何か重いものを背負っているような重みがあった。俺も後を追う。
「私は…」
湖畔に立ったアリアは、長い間口を開かなかった。月光に照らされた横顔が、まるで石像のように静止している。
「ドラゴン族の王女だった」
その告白は、夜の静寂に吸い込まれるように響いた。俺は息を吞む。毛布の中でレイナもぴくりと動いたが、寝たふりを続けているようだ。
「ドラゴン族は古くからこの大陸に住んでいた。人間とは違う価値観を持ち、数百年の命を生きる種族だった」
アリアの声は遠い記憶を辿るように、ゆっくりと紡がれる。
「私の父は王で、母は美しい女王だった。弟が三人、妹が一人いた。皆…」
声が震える。
「皆、誇り高く、美しく、そして愚かだった」
「愚か?」
「人間を見下していたのだ。特に、カルトのような狂信者たちを『取るに足らない存在』だと」
アリアは拳を握りしめる。その手が小刻みに震えているのを俺は見逃さない。
「アシュヴィン・ゼルティス…あの男が我々の元に現れたのは、五年前のことだった」
その名前を口にした瞬間、アリアの全身に緊張が走る。
「彼は貴族だった頃の優雅さを保ちながら、我々に協力を申し出た。『邪神の復活を阻止するため、ドラゴンの力を貸して欲しい』と」
アリアの声が苦々しくなる。
「父は彼を信じた。母も、弟たちも。あの男の言葉巧みな提案に、一族の多くが賛同した」
「でも君は違った」
「そうだ」
アリアは湖面を見つめたまま続ける。
「彼の瞳に宿る狂気を、私だけは見抜いていた。でも…」
彼女は唇を噛む。
「誰も私の言葉を信じなかった。『アリアは疑り深すぎる』『人間との協調も必要だ』そう言われて、一人だけ反対を続けた」
風が強くなり、アリアの髪が舞い上がる。月光に照らされたその姿は、まるで哀しい女神のようだった。
「そして、あの夜が来た」
彼女の声が震える。
「カルトの儀式の夜。アシュヴィンは約束通り、邪神の復活を阻止すると言った。しかし実際は…」
アリアは湖面に映る月を見つめる。
「彼は邪神を復活させるために、我々を利用したのだ」
その時、湖の向こうから夜鳥の鳴き声が聞こえた。まるでアリアの言葉に呼応するような、哀しい声だった。
「ドラゴンの血こそが、封印を破る鍵だった。特に王族の血は格別に強力で…」
彼女は震える手で自分の腕を撫でる。
「一族は皆、儀式の場に集められた。そして…」
声が途切れる。俺は何も言わず、彼女の言葉を待つ。
「魔術の結界に囚われ、一人ずつ血を抜かれていった」
アリアの肩が震えている。
「父が、母が、弟たちが…私の目の前で」
涙がアリアの頬を伝う。月光に照らされたその雫が、まるで真珠のように光っている。
「最後に妹が…」
声にならない嗚咽が漏れる。俺は彼女の肩に手を置こうとして、やめる。今は触れない方がいい。そんな気がした。
「妹は最期の力で結界に穴を開けてくれた。『姉様、逃げて』って。まだ十歳にもならない子だったのに」
アリアは自分の胸を掴む。まるで心臓を押さえつけるように。
「私は逃げた。家族を見捨てて、一人だけ」
「それは…」
「あの夜以来、私は何もできずにいる」
俺の言葉を遮って、アリアは続ける。
「王女でありながら、民を守ることもできず、家族を救うこともできなかった」
彼女が振り返る。その瞳には深い自己嫌悪が宿っていた。
「だから私は呪われた存在なのだ。私に関わる者は皆、不幸になる。君も、レイナも…」
「そんなことはない」
俺は迷わず言い切る。
「君は生き残ったんだ。それは偶然じゃない、妹さんの想いがあったからだ」
「でも…」
「君が生きていることで、家族の仇を討つことができる。アシュヴィンを止めることができる」
俺はアリアの前に立つ。
「君は一人じゃない。俺がいる、レイナもいる」
アリアは俺を見つめる。その瞳に、かすかな希望の光が宿る。
「君は本当に…」
言いかけて、彼女は口を閉ざす。何かを言いたそうにして、でも言葉が出てこないようだ。代わりに、彼女は小さく首を振る。
「私には…まだ分からない」
その時、湖面が突然波立った。
「何だ?」
俺は警戒して湖を見つめる。月光に照らされた水面が、不自然に盛り上がっている。
「まずい!」
アリアが叫ぶ。
湖から巨大な影が立ち上がった。全長十メートルはあろうかという水蛇の魔獣だった。鱗は青黒く光り、頭部には角のような突起がある。赤い目が俺たちを睨みつけ、長い舌をちろちろと出している。
「レイナ!」
俺は大声で叫ぶ。
「…起きてるって」
毛布から出てきたレイナの声は、いつもより低く沈んでいた。短剣を構えてはいるが、その手がかすかに震えているのを俺は見逃さない。
「でっけえ蛇だね…」
レイナのいつもの軽口にも、今夜は覇気がない。何かを無理して言っているような、そんな感じだった。
「アリア、火は使えるか?」
「湖の近くだ。危険すぎる」
俺は剣を抜きながら言う。水蛇は威嚇するように首をもたげ、俺たちを見下ろしている。その口からは毒々しい液体が滴り落ち、地面を溶かしている。
「毒持ちか。厄介だな」
俺は冷静に敵を観察する。刑事時代に培った観察力が、魔獣の弱点を探る。
水蛇の動きには癖がある。攻撃前に必ず首を左に振る。それに、あの巨体では小回りが利かないはずだ。
「二人とも、俺の合図で散れ!」
水蛇が首を振った瞬間、俺は叫ぶ。
「今だ!」
三人は別々の方向に飛び散る。水蛇の毒液が、さっきまで俺たちがいた場所を直撃した。地面が激しく溶け、白い煙が立ち上る。
「レイナ! 目を狙え!」
「…了解!」
レイナが動く。だが、いつもの軽やかさがない。足取りが重く、短剣を握る手にも迷いが見える。
何かがおかしい。
俺は正面から注意を引く。
「こっちだ!」
剣を振り回し、水蛇の頭部を狙う。だが蛇の鱗は硬く、刃が弾かれる。
その時、アリアが動いた。
「クロサキ、危ない!」
水蛇の尻尾が俺を狙って振り下ろされる。俺は咄嗟に身を屈めるが、避けきれない。
アリアが俺の前に立ちはだかった。
「アリア!」
彼女はドラゴンの姿に変身し、尻尾を受け止める。しかし、魔獣の力は強大で、アリアの鱗に深い傷が刻まれる。黒い血が月光に光る。
「くそっ!」
俺は怒りに燃える。アリアを傷つけられて、黙っていられるか。
俺は水蛇に向かって突進する。今度は刃ではなく、柄頭で鱗の隙間を狙う。
「そこだ!」
首の付け根、鱗の重なりが薄い部分に剣が突き刺さる。水蛇が苦悶の声を上げる。
その隙に、レイナが水蛇の目を短剣で貫いた。
「やった…」
いつもなら「やったね!」と明るく叫ぶところなのに、レイナの声には達成感がない。まるで義務を果たしただけのような、そんな響きだった。
水蛇は大きく身悶えし、湖に崩れ落ちる。巨大な水飛沫が上がり、俺たちは全身ずぶ濡れになった。
「アリア!」
俺は急いで彼女の元に駆け寄る。ドラゴンの姿から人間の姿に戻った彼女は、肩から血を流していた。
「大丈夫か?」
「…大したことはない」
アリアは強がるが、顔は青ざめている。俺は彼女の傷を調べる。深くはないが、放っておけば化膿するかもしれない。
「レイナ、薬草は?」
「…あるよ」
レイナが荷物から薬草を取り出してくる。だが、その動作にはいつもの機敏さがない。まるで何かに気を取られているような、そんな感じだった。
俺は手早くアリアの傷を洗い、薬草を当てて包帯を巻く。
「なぜ庇った?」
「…」
アリアは答えない。だが、その頬がかすかに赤らんでいる。
「君が怪我をする理由なんてないのに」
「君を失いたくなかった」
小さな声だったが、確かに聞こえた。俺の胸が熱くなる。
「アリア…」
「私は…君といると、家族のことを忘れられる」
アリアは俺を見つめる。
「君といると、私でも誰かを守れるような気がする」
その瞳には、もう絶望はない。代わりに、温かな光が宿っている。
「だから…」
彼女は言葉を探すように、少し間を置く。
「傷つけられたくなかった」
俺は彼女の頬に手を触れる。アリアは目を閉じ、俺の手に頬を押し付ける。
「ありがとう、アリア」
「…こちらこそ」
二人の間に、言葉では表せない何かが流れる。それは恋とはまだ呼べないかもしれないが、確実に愛情の芽生えだった。
「あー…ちょっと」
レイナの声で我に返る。いつもなら「おーい、いちゃついてる場合じゃないよ」と明るく割り込むところなのに、今夜の彼女の声は沈んでいる。
「この蛇、なんか…変な石を飲み込んでたみたい」
レイナが手に持っているのは、青く光る宝石だった。手のひらサイズで、内部に魔力が渦巻いている。
「これ…どこかで見たような」
レイナの声に、困惑が混じる。その表情は、いつもの人懐っこい笑顔ではなく、まるで嫌な記憶を思い出そうとしているような暗さがあった。
「魔術の気配がする」
俺は宝石を受け取る。触れた瞬間、冷たい感覚が指先を走る。
「…なんだこれは」
俺は宝石を見つめる。その青い輝きの中に、何か得体の知れない意志のようなものを感じる。
「とりあえず、今夜はもう休もう」
俺は宝石をしまいながら言う。
三人は焚き火の周りに戻る。レイナはすぐに毛布にくるまったが、今度は背中を俺たちに向けている。いつもなら最後まで起きて話をしたがるのに。
俺とアリアは、しばらく焚き火を挟んで向かい合って座っていた。
「クロサキ」
「なんだ?」
「さっき話したこと…レイナには」
「分かってる」
俺は頷く。
「でも、いつか話してもいいと思う。彼女も仲間だ」
「…そうかもしれないな」
アリアは火を見つめる。
「君の部下の話も、辛かっただろう」
「ああ。でも、君に話せて良かった」
俺も正直に答える。
「一人で抱え込んでいても、何も解決しない」
「そうだな」
アリアが微笑む。その笑顔は、俺が初めて見る彼女の素の表情だった。
「もう少し話していてもいいか?」
「構わない」
俺は薪を火にくべる。その時、毛布の中からかすかにすすり泣く声が聞こえたような気がした。
でも、振り返ってみてもレイナは静かに眠っているように見える。
きっと風の音だろう。
「君の世界では、どんな食べ物があったんだ?」
アリアの質問で、俺は我に返る。
「え?」
突然の質問に俺は戸惑う。
「いや…普通の食べ物だけど」
「普通とは?」
アリアの目が輝いている。さっきまでの重い雰囲気から一変して、彼女は好奇心旺盛な表情を見せている。
「そうだな…米とか、魚とか」
「コメ? サカナ?」
聞き慣れない言葉に、アリアは首をかしげる。
俺は笑いながら説明を始める。この世界にはない食べ物について、彼女はとても興味深そうに聞いている。
「醤油っていう調味料があってな…」
「ショウユ?」
「黒い液体で、塩辛いんだ。それを魚に付けて食べるとうまいんだよ」
「黒い液体…」
アリアは真剣に考え込む。
「想像できないな」
「今度、似たようなものを探してみるよ」
「本当か?」
彼女の瞳が輝く。その表情は、年相応の女性のそれだった。王女でもドラゴンでもない、ただの一人の女性。
こうして、二人は夜が更けるまで話し続けた。重いことも軽いことも、過去のことも未来のことも。
星空の下、焚き火を囲んで語り合う時間は、俺たちにとって特別なものになった。
アリアの本当の笑顔を見ることができた夜。
そして俺自身も、初めて心の重荷を分かち合うことができた夜。
二人の距離は確実に縮まっていた。
ただ、毛布の中で小さくすすり泣く声だけが、時折夜風に混じって聞こえていた。
そしてその声に、俺はまだ気づいていない。
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