第7話 洞窟の疑心(1)

 雨が降り始めたのは、俺たちが山道を歩き始めてから三時間ほど経った頃だった。


 最初はぽつぽつと頬を濡らす程度だったが、次第に本降りになり、やがて叩きつけるような激しい雨に変わった。アリアの黒い髪が雨に濡れ、額に張り付いている。彼女は雨を気にする素振りも見せず、黙々と歩き続けていたが、時折身震いするのを俺は見逃さなかった。


「寒いのか?」


 俺が声をかけると、アリアは振り返って眉をひそめた。しかし、その瞳の奥にはいつもと違う何かが宿っているような気がした。警戒心とも違う、もっと深い感情が。


「ドラゴンが寒さなど感じるものか」


 そう言いながらも、彼女の唇は微かに青ざめている。ドラゴンといえども、人間の姿でいる時は人間と同じ感覚を持つのだろう。俺は自分の外套を脱いで彼女に差し出そうとしたが、アリアは頑なに首を横に振った。


「余計な気遣いは無用だ」


 その頑固さが、彼女らしいといえば彼女らしい。だが、俺の申し出を断る時の彼女の表情には、僅かな困惑があったように見えた。まるで、人からの優しさを受け取ることに慣れていないかのように。


「おいおい、二人とも濡れ鼠になる気かい?」


 レイナが振り返りながら、苦笑いを浮かべた。彼女の金髪も雨でべったりと顔に張り付いているが、相変わらずの軽い調子だ。しかし、よく見ると、彼女もまた頬を赤らめている。山の冷気が思った以上に厳しいのかもしれない。


「あそこに洞窟がある。雨宿りしようぜ」


 レイナが指差した先に、確かに暗い洞窟の入り口が見えた。山肌にぽっかりと空いた穴は、まるで巨大な獣の口のようで、不気味な印象を与える。だが、この雨の中を進むよりはマシだろう。


「そうだな。一度休もう」


 俺がそう決断すると、アリアは僅かに肩の力を抜いた。強がっていても、やはり寒さは堪えていたのだろう。


 俺たちは洞窟に向かった。入り口は思ったよりも広く、奥行きもそれなりにある。湿った空気が鼻をつき、岩壁には緑色の苔が薄っすらと光っていた。洞窟内は外の雨音が遮られ、不思議な静寂に包まれている。


「意外と居心地良さそうじゃない」


 レイナが洞窟の中を見回しながら言った。刑事時代に培った勘が、ここは安全だと告げていた。それでも油断は禁物だ。


「焚き火の準備をしよう」


 俺がそう提案すると、レイナが手を叩いた。


「さすが、話が分かる!薪は任せな」


 彼女は持ち前の身軽さで洞窟の奥へと消えていく。その足音が次第に遠ざかる中、俺とアリアは洞窟の入り口付近で待機していた。


 アリアは洞窟の壁にもたれかかり、外の雨音を聞いていた。その横顔は、雨に濡れた髪の間から覗く白い肌が美しく、思わず見とれてしまう。彼女が人の形をとっている今、俺は改めて彼女の人間らしい一面を感じていた。


「アリア」


「何だ?」


「さっきは、ありがとう」


 俺の言葉に、アリアが振り返る。雨音の中でも、彼女の鼓動が早くなったような気がした。


「何のことだ?」


「聖剣の試練の時。君の声がなければ、俺はあの幻影に負けていた」


 アリアの頬が、僅かに赤らんだ。それとも、洞窟の薄暗さで見間違えただろうか。いや、確かに彼女は赤くなっている。そのことに気づくと、俺の胸にも妙な温かさが広がった。


「…当然のことをしただけだ。お前が倒れれば、私も困る」


 そっけない返事だったが、彼女の声には普段にない優しさが混じっていた。そして、彼女の視線が一瞬、俺の唇に向けられたような気がした。だが、それはすぐに逸らされてしまう。


 俺は微笑みかけようとしたが、アリアはすでに顔を背けていた。彼女のうなじが白く見え、そこに雨粒がいくつか光っているのが見えた。


「おーい、薪集めたぞー!」


 レイナの明るい声が洞窟に響く。彼女は両腕いっぱいに枯れ木を抱えて戻ってきた。その様子は、まるで子供が宝物を見つけたかのように嬉しそうだった。


「こんな洞窟にも、意外と燃えそうなのがあるもんだね」


「よく見つけてくれた」


 俺は火打ち石を取り出し、焚き火の準備を始めた。乾いた木くずに火花を散らし、息を吹きかけて火を育てる。小さな炎が顔を覗かせると、洞窟内の温度が僅かに上がったような気がした。やがて炎が安定し、洞窟の中が温かい光に包まれた。


「ふぅ、生き返る」


 レイナが火に手をかざしながら、満足そうにため息をついた。その表情は心底安堵したものだった。アリアも火の近くに座り、濡れた髪を手で絞っている。炎の光が彼女の顔を照らし、普段の凛々しさとは違う柔らかな表情を浮かべていた。


「しかし、この雨はいつまで続くんだか」


 俺が洞窟の入り口を見やると、雨脚は一向に弱くなる気配がない。雷鳴も時折響いており、嵐はまだしばらく続きそうだった。


「明日の朝には止むでしょ。山の雨はそんなもんさ」


 レイナが楽観的に言った。彼女は背負っていた袋から干し肉を取り出し、火であぶり始める。肉の焦げる匂いが洞窟に広がり、俺の腹が軽く鳴った。


「腹が減っては戦はできぬ、ってね」


 その時、アリアがふと立ち上がった。彼女の動きは急で、何かに気づいたような素振りだった。


「少し外の様子を見てくる」


「危険だ。俺も一緒に—」


「一人で大丈夫だ」


 アリアは俺の制止を振り切って、洞窟の入り口へ向かった。雨音にかき消されそうになりながらも、彼女の足音が次第に遠ざかっていく。俺は彼女の後ろ姿を見送りながら、胸の奥に不安を感じていた。


「あいつ、何か気になることでもあるのかね?」


 レイナが干し肉を齧りながら呟いた。その声には、普段の軽さとは違う、僅かな心配が込められていた。


「さあな。でも、アリアなりに何か考えがあるんだろう」


 俺はそう答えたが、実際のところは心配だった。アリアは時折、一人で何かを抱え込む癖がある。それが彼女の性格だと分かってはいても、やはり気にかかる。特に、さっきの彼女の表情には、いつもとは違う緊張感があった。


「黒崎」


 レイナが急に真面目な顔になった。炎の光が彼女の顔に複雑な影を落としている。


「何だ?」


「あんた、アリアのこと好きなんだろ?」


 突然の質問に、俺は言葉に詰まった。レイナの瞳が、いつになく真剣な光を宿している。


「いや、それは…」


「別に隠すことないじゃない。見てて分かるよ。あんたがアリアを見る時の目、普通じゃないもん」


 レイナの言葉に、俺は自分の気持ちを改めて見つめ直した。確かに、アリアに対する感情は、単なる仲間意識を超えている。彼女の笑顔を見た時の胸の高鳴り、彼女が危険にさらされた時の焦燥感。そして、さっき洞窟の中で彼女の横顔を見つめていた時の、あの温かな感情。それは恋と呼ぶべき感情なのかもしれない。


「でもな、レイナ。俺は—」


「刑事だったから、人を守るのが当然だと思ってる?」


 レイナが俺の言葉を遮った。彼女の表情は、いつもの茶目っ気のあるものとは全く違っていた。


「そんなの、言い訳だよ。あんたがアリアを特別に思ってるのは、誰が見ても明らかさ」


 俺は火を見つめながら、考え込んだ。炎の中に、アリアの顔が浮かんでは消える。レイナの言う通りなのだろう。俺はアリアを、他の誰よりも大切に思っている。


「でも、俺みたいな男が、アリアにふさわしいとは思えない」


「ふさわしいかどうかなんて、アリアが決めることでしょ?あんたが勝手に諦める権利はないよ」


 レイナの言葉は、いつもの軽い調子とは違い、どこか説得力があった。彼女の瞳には、俺への友情と、そして僅かな寂しさが混じっているようだった。


「それに、アリアだって、あんたのこと—」


 その時、洞窟の入り口から足音が聞こえた。アリアが戻ってきたのだ。しかし、彼女の表情は険しく、いつもの冷静さの中に、怒りにも似た感情が宿っていた。


「どうした?」


 俺が立ち上がると、アリアは眉をひそめて、その鋭い視線をレイナに向けた。


「レイナ、お前は先ほど、どこへ行っていた?」


「はぁ?何のこと?」


 レイナが首をかしげる。しかし、その表情にも僅かな緊張が走った。


「焚き火の薪を集めに行った時のことではない。昨夜だ。夜中に野営地を出て行くのを見た」


 アリアの言葉に、俺は驚いた。昨夜、レイナが外出していたことなど、俺は全く気づかなかった。だが、ドラゴンの鋭敏な感覚を持つアリアなら、そのような動きを察知してもおかしくない。


「あー、それね」


 レイナが苦笑いを浮かべた。しかし、その笑顔はいつもより硬い。


「別に隠してたわけじゃないよ。ちょっと用事があっただけさ」


「用事?夜中に?」


 アリアの声が厳しくなる。彼女の瞳が金色に光り始めている。ドラゴンの本性が顔を覗かせている証拠だった。


「お前、まさかカルトと繋がりがあるのではないか?」


「おいおい、そりゃひどい言いがかりだよ」


 レイナが両手を上げて苦笑いした。しかし、その表情には明らかな動揺があった。アリアの疑惑の視線を受けて、彼女の肩が僅かに震えている。


「また人間に裏切られるのか…」


 アリアが小さく呟いた。その声には、深い悲しみと怒りが込められている。俺は、彼女の過去に何かトラウマがあることを察した。おそらく、以前に人間に裏切られた経験があるのだろう。


 洞窟の空気が、急に重くなった。焚き火の炎が揺れ、二人の顔に不安定な影を落とす。俺は二人の間に立った。


「待て、アリア。レイナを疑うには早すぎる」


「黒崎、お前は甘すぎる。この女が裏切り者だったらどうする?」


 アリアの声は冷たく、その瞳には怒りの炎が宿っている。一方、レイナは困ったような表情で俺を見つめていた。


「裏切り者って、ひどいなあ」


 レイナが肩をすくめた。しかし、その表情にはいつもの気楽さが影を潜め、代わりに深い悲しみが浮かんでいる。


「いいさ、話すよ。どうせ隠し続けるつもりもなかったしね」


 レイナが火のそばに座り直し、俺たちを見上げた。その瞳には、覚悟を決めたような光があった。


「昨夜、盗賊仲間に会いに行ったんだ」


「盗賊仲間?」


 俺が眉をひそめる。


「そう。あたしには、まだこの辺りで活動してる仲間がいるのさ。で、その連中にちょっと頼み事をしてきたってわけ」


 アリアの表情は依然として険しい。


「どのような頼み事だ?」


「カルトの拠点を調べてもらったのさ。あたしたちだけじゃ情報が足りないでしょ?」


 レイナの説明に、俺は納得した。確かに、カルトの動向を探るには情報が必要だ。しかし、アリアの疑念は晴れていない。


「それで、何か分かったのか?」


 俺が尋ねると、レイナの表情が明るくなった。


「ああ、それがね」


 レイナが懐から一枚の羊皮紙を取り出した。その紙は古く、端が僅かに焼けているように見える。


「この近くに、カルトの小さな拠点があるらしい。警備も薄いし、物資もそれなりに蓄えてるって話さ」


 俺は羊皮紙を受け取って確認した。手書きの地図には、確かに「カルト拠点」と書かれた場所がある。しかし、地図を開いた瞬間、奇妙なことが起こった。


 アリアの首筋が、突然青白く光ったのだ。


「アリア、君の…」


 俺が指摘しようとした時、光は既に消えていた。しかし、アリア自身もその変化に気づいたようで、自分の首に手を当てている。


「これは…本当なのか?」


 俺が地図を見つめながら尋ねると、レイナが頷いた。


「仲間の情報は確実だよ。あいつらは情報収集のプロだからね」


 アリアが俺の横から地図を覗き込む。彼女が地図に近づくと、再び微かな光が首筋を走った。まるで、彼女の血と地図の魔術が反応しているかのようだった。


「…すまなかった、レイナ。疑って悪かった」


 アリアの謝罪に、レイナは困ったような笑顔を浮かべた。


「いやいや、気にしてないよ。疑われるようなことしたのはあたしの方だし」


 レイナが手をひらひらと振った。しかし、彼女の表情には僅かな寂しさが浮かんでいるように見えた。傷ついていないと言いながらも、疑われたことは彼女の心に小さな傷を残したのだろう。


「でも、アリア。あんたがあたしを信用できないのも分かるよ。あたしは所詮、盗賊だからね」


 レイナの声には、自嘲的な響きがあった。


「そんなことはない」


 俺が口を挟んだ。


「レイナ、俺はお前を信じている。お前がここまで俺たちと共に戦ってくれたことを、俺は忘れない」


「黒崎…」


 レイナの目が、僅かに潤んだ。しかし、彼女はすぐに笑顔を作り直した。


「ありがとね。でも、あんまり感謝されると照れるから、この辺りでやめといて」


「私も…すまなかった」


 アリアが小さく呟いた。


「お前を疑ったのは間違いだった。私は…人を信じることが苦手なのだ」


 その言葉には、深い痛みが込められていた。きっと彼女には、過去に人間に裏切られた辛い記憶があるのだろう。


「それで、その拠点をどうするつもりだ?」


 アリアが地図を指差しながら尋ねた。


「もちろん、叩くのさ」


 レイナが立ち上がった。その表情には、いつもの活気が戻っている。


「カルトの物資を奪えば、あいつらの計画も遅らせることができる。それに、もっと重要な情報が手に入るかもしれない」


 俺は地図をもう一度確認した。拠点は山を下った谷間にある。歩けば半日程度の距離だ。


「警備は薄いと言ったが、どの程度なんだ?」


「見張りが二、三人程度って話さ。大した戦力じゃないよ」


「それなら、俺たちでも十分対処できそうだな」


 俺がそう言うと、アリアも頷いた。しかし、その表情には警戒心が残っている。


「ドラゴンの力を使えば、瞬く間に片が付く」


「でも、派手にやりすぎちゃダメよ。目立ちすぎると、他の拠点に警戒されちゃう」


 レイナの指摘はもっともだった。俺たちの目的は、カルトの計画を阻止することだ。一つの拠点を潰したところで、全体に警戒されては元も子もない。


「分かった。できるだけ静かにやろう」


「雨が止んだら出発しましょう。夜明け前に拠点に着けば、奇襲をかけられる」


 アリアの提案に、俺たちは同意した。


「それまでは休んでおこう。体力を温存する必要がある」


 俺がそう言うと、レイナが欠伸をした。


「そうね。あたし、ちょっと疲れちゃった」


 彼女は洞窟の壁にもたれかかり、目を閉じた。すぐに寝息が聞こえてくる。レイナの寝顔は、普段の活発さとは対照的に穏やかで、まるで子供のようだった。


「よく眠れるものだな」


 俺が呟くと、アリアが小さく笑った。


「あの女は図太い。ある意味、羨ましいくらいだ」


「お前も少し休んだらどうだ?」


「…そうしよう」


 アリアも洞窟の壁にもたれかかった。焚き火の光が彼女の顔を照らし、いつもの厳しい表情が和らいで見える。眠りにつこうとする彼女の横顔は、驚くほど美しかった。


「黒崎」


「何だ?」


「さっき、レイナを信じると言ったが…本当か?」


 俺は頷いた。


「ああ、本当だ」


「なぜそう言い切れる?」


 アリアの質問に、俺は少し考えてから答えた。


「刑事時代、俺は多くの人間を見てきた。善人もいれば悪人もいる。だが、レイナは根っから悪い奴じゃない。それは、彼女の行動を見ていれば分かる」


「行動?」


「ああ。レイナは金に困っているはずなのに、俺たちから盗みを働こうとしたことはない。それどころか、危険な時には身を挺して俺たちを助けてくれた。そういう人間が、簡単に裏切るとは思えない」


 アリアが俺を見つめていた。その瞳には、何か複雑な感情が宿っている。信頼への憧憬と、過去の傷による警戒心が混在していた。


「お前は…人を信じすぎる」


「そうかもしれない。でも、信じなければ、何も始まらない」


「私も…お前を信じてもよいのか?」


 アリアの言葉に、俺は胸が熱くなった。彼女の瞳が、まっすぐに俺を見つめている。


「もちろんだ」


「ならば…私のことも、信じてくれ」


「当然だ」


 アリアが微笑んだ。その笑顔は、どこか初めて見るものだった。心の奥底から湧き上がるような、純粋で美しい笑顔。


「ありがとう、黒崎」


 そう言って、アリアは目を閉じた。やがて彼女の呼吸も穏やかになり、眠りについたようだった。


 俺は焚き火の番をしながら、外の雨音に耳を澄ませた。雨はまだ降り続いているが、先ほどよりは幾分弱くなったように思える。明け方には止むかもしれない。


 そうなれば、俺たちはカルトの拠点へ向かうことになる。小さな拠点とはいえ、敵の本拠地に乗り込むのだ。危険が伴うのは間違いない。


 だが、俺には守るべきものがある。アリア、そしてレイナ。この二人と出会えたことは、俺にとって大きな転機だった。刑事時代の失敗に囚われていた俺に、新しい目的を与えてくれた。


 今度こそ、俺は誰も失いたくない。


 焚き火の炎が小さくなったので、薪を一本加えた。炎が再び大きくなり、洞窟の中が明るく照らされる。レイナとアリアの寝顔が、平穏そうに見えた。


 俺はしばらく二人の寝顔を見つめていたが、やがて自分も眠気に襲われた。聖剣を膝の上に置き、背中を壁にもたせかける。意識が薄れていく中で、俺は明日の戦いのことを考えていた。


 必ず成功させる。アリアの未来のために。


 そんな決意を胸に、俺は眠りについた。

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