9-3

「失礼します」


 放課後、自宅に帰らずに、まっすぐ瑠伊のいる病室へとやってきた。

 私が二度目の訪問をしたことに彼は心底驚いた様子でじっとこちらを見つめた。でも、すぐにふっと表情を和らげて「また来てくれたんだ」と笑った。


「この前は、ちゃんと話せなくてごめんね。俺の記憶にはなくても、きみの記憶に俺はいるのに」


 健気な言葉を聞いて、身を切られるように胸が詰まった。

 ああ、そうか。

 向井さんの言っていた言葉の意味がようやく分かった。

 私のことを忘れてしまって、いちばん傷ついているのはきっと瑠伊だ。

 もし私が彼の立場なら、友達を忘れてしまった自分を情けなく思うだろう。悔やんでも自分ではどうすることもできなくて、自分を責めてしまうと思う。

 瑠伊はこの一週間、そんな葛藤に苛まれていたのだ。


「ううん、こちらこそ、あれから一度も来なくてごめんなさい。向井さんから、瑠伊が私に会いたいって言ってくれてるって聞いて……」


「ああ、澪のやつちゃんと伝えてくれたんだ」


 向井さんのことを“澪”と呼ぶ、彼のことをちょっとだけ憎らしく思う。けれど、これが本当の瑠伊だ。向井さんの幼馴染で、二人は仲良しで。高校生になって、私が横入りした。向井さんから大切な友達を奪ったのだ。


「どうして、私に会いたいって思ってくれたの?」


 ネガティブな感情に支配される前に気になっていたことを聞いた。瑠伊はすっと目を細めて、ベッド脇に置いていたトートバッグからキャンバスを取り出す。


「これ、母さんが持ってきてくれたんだ。俺の部屋にあったからって。描きかけみたいだから、入院中の手慰みにって思ったんだろうな。この絵を見てたら、思い出したんだ。俺、短歌絵画コンクールに応募しようとしてたんだって」


 彼が私に見せてくれたのは、紛れもなく潮風園芸公園で描いたあのユリの絵だった。

 デッサンの上から水彩画の絵の具で色が付けられている。まだ完全に出来上がってはいなくて、陰影などはなく、薄い色が付いているだけだった。


「なあ、もしかしてさ、一緒につくろうとしてたのかなって思って。はっきりとは思い出せないんだけど、誰かと一緒にコンクールに応募しようとしてたことは覚えてる。その誰かが思い出せないってことは、つまりきみと一緒に頑張ろうとしてたんじゃないかって」


「……っ!」


 ざぶん、とあの日聞いた波の音が聞こえたような心地がした。


「……うん。そうだよ」

 

 正直に頷くと、瑠伊の紺碧色の瞳がふるりと揺れた。


「やっぱりそうだったんだ。じゃあ、もう一度一緒にやってくれないか?」


「……え?」


 耳を疑った。どんな人間ともしれない私と、短歌絵画コンクールに応募するだって? 

 信じられない思いで彼の顔を凝視する。彼は「そのさ」と話を続けた。


「過去の俺がきみとコンクールに応募するって決めたってことは、それほど大事なことだったんだろ。だから、こんなふうに中途半端にやめちゃいけないって思うんだ。それに、きみにとっても、コンクールに参加することに意味があるって思ってる。……って、きみの記憶がない俺が偉そうに言うのもおかしいと思うけど、そこは目を瞑ってくれたら」


 ふっと目を細めて笑う瑠伊は、私の知っている海藤瑠伊そのものだった。

 私のことを忘れても、瑠伊は変わらない。中学時代の記憶を思い出しても、明るい瑠伊のままでいてくれる。

 瑠伊はまた、私と一緒に頑張ろうとしてくれている。

 それだけで十分じゃないか。

 胸がジンと熱くて、心臓もドクドクと気力を取り戻したかのように激しく動き出す。全身に血液が運ばれて、昨日まで沈んでいた私を奮い起こしてくれるようだった。


「うん……一緒に、やりたい」


 上手くできるかは分からない。

 でも、傷を分け合った瑠伊となら、最後までやり通せる気がするから。


 瑠伊の表情にぱっと花が咲いたように光が差した。

 実際に窓から差し込む西日が彼の横顔を照らす。ブロンズの髪の毛がきらきらと輝いている。


「よし、それじゃあ決まりだな。もし綿雪さん——夕映が可能なら、また学校終わりにここに来てもらえる? 俺、もう少しだけ入院してる予定だから」


 夕映、と名前を呼ばれて温かいものが胸に込み上げる。

 涙がこぼれないように、ぎゅっと瞳に力を込めてから「うん!」と頷いた。

 

 かくして私は、私のことを忘れてしまった瑠伊と、もう一度短歌に向き合うことに決めたのだった。


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