第六章 気づかないふりをしていた

6-1

 約束の六月二十九日は朝起きた瞬間に部屋の中に充満するペトリコールの匂いが鼻をついた。窓を開けなくても分かる。部屋の中にいても土の匂いを感じるくらい激しい雨が降っていることが。

 ぽやぽやとした頭で、瑠伊にLINEを入れた。


【おはよう。すごい雨だね。どうする? 別日にする……?】


 私としては、今日瑠伊に会えるのをとても楽しみにしていたので、できれば約束通り、彼と遊びに行きたい。でも、この雨じゃなぁ……と落胆する気持ちも大きかった。

 瑠伊はなんて言うだろう。

 ドキドキしながら返信を待っていると、すぐに瑠伊からメッセージが来た。


【夕方には晴れるって! 俺は行きたい。夕映は?】


 俺は行きたい。

 その一言が嬉しくて、ベッドの上でぴょんと身体が跳ねた。


【私も、行きたいな。傘持って行けば大丈夫だよね】


【ああ。念のためカッパも着ていく】


【じゃあ私もそうする】


 行くと決まれば話がどんどん前向きなほうに進んでいって、やっぱり瑠伊はすごいと思う。私を、こんなにも明るい気持ちにさせてくれるなんて。

 

「お母さん、行ってくるね」


 支度を済ませて、リビングで掃除機をかけていた母に声をかける。


「え、この雨のなか行くと?」


「うん。だって約束したから」


 素直に答えると、母はふっとやわらかい表情になった。


「そっか。じゃあ行ってらっしゃい。気をつけてね」


 きっと母は、かつて部屋に引きこもっていた私が友達と外へ遊びに行くというのが嬉しくて仕方がないんだろう。ちなみに今日、瑠伊とのデートは「友達と」と伝えてある。男の子となんて言ってないので、母はたぶん、女友達と出かけると思ってるだろうな。

 ちょっとした背徳感を抱きつつ、これぐらいいいよね、と心の中でふふと笑った。



「やっべーやっべー!」


 約束の最寄駅までたどり着くと、瑠伊はわたわたとレインコートを脱いで、タオルで髪の毛を拭いていた。画材を入れた大きめのトートバックはかろうじて濡れずに済んだようだ。


「え、自転車で来たの?」


「うち、ちょっと遠いんだよ。カッパ着てっから大丈夫だと思ったんだけど、フードがすぐ脱げるんだなこれ」


「なるほど……災難だったね」


 私はこの雨で自転車に乗るなんて苦行はできないので、傘をさして歩いて来た。


「ま、これぐらいで済んで良かったわ。それより夕映、私服可愛いな」


「え!? あ、ありがとう」


 今日、私は紺色のスキニーパンツにふわりと裾が広いピンクのブラウスを着てきた。本当はワンピースとかスカートを履きたかったんだけど、この雨でスカートが汚れるのが嫌で、パンツスタイルにしたのだ。


「いつも制服姿しか見てなかったから新鮮だな。でも予想通り、夕映は可愛い!」


 可愛い可愛いと臆面もなく言う瑠伊に、私のほうが恥ずかしくて顔がどんどん熱くなる。


「あんまりからかわないで! これでも私、男の子とデ、デートなんて初めてなんだからっ」


「え、初めて? デートが?」


 目を大きく見開いてぽかんと動きを止める彼に、思わず「そうだよ!」と軽く叫んだ。


「ま、まじかー……うわー」


「なにその反応? モテないやつだって思ってるでしょ」


「ち、ちげーよ! そうじゃなくて、嬉しくてさ……」


「嬉しい?」


「ああ。だって俺が、夕映の初めてのデートの相手ってことだろ? なんだよそれ、最高じゃん」


 彼の言葉の意味を理解して、すーっとまた顔に熱が溜まっていく。

 もう、この男、なんてこと言うの……。

 そんなこと言われたら私、瑠伊のこと気になっちゃうじゃない——。


 頭に思い浮かんだ言葉をすぐに打ち消す。

 何考えてるの、私! 

 意識すればするほど、これから瑠伊とデートに行くことが恥ずかしくなるじゃん。


「と、とにかく早く行こうよ! 時間がもったいないでしょ」


「お、おう」


 これ以上、彼の無自覚すぎる攻撃にやられないように、すたすたと改札を潜るのだった。

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