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自分でも意図しないまま、気がつけば声が震えていて、目尻から涙がこぼれていることに気づいた。隣にいた母がそっと私の背中に手を添える。
「そうでしたか。傷を抉るようで申し訳ありませんが、もう少しだけ詳しく教えてください。あなたが苦しかったこと。いまも、苦しいと思っていること。答えられる限り、教えていただけませんか?」
先生の優しい声に、私はふるふると首を縦に振りながら、ゆっくりとあの地震が起こってからの出来事を話し出した。
親友の優奈を失って、悲しくて仕方がなかったこと。
自分のせいで優奈が逝ってしまったのではないかと思って、後悔したこと。
しばらく学校に行けずに家に引きこもっていたこと。
何度も夢で、地震の時の記憶を掘り返してしまうこと。
そして——あの出来事が、ぜんぶなかったことになったらいいのに、記憶を消してしまいたい、明日が来るのが怖い、未来が決まっていたら安心できるのに——と思ったこと。
私の言葉をじっくりと咀嚼するようにして受け止めてくれた医者はたった一言、「話してくれてありがとう」と言った。
「夕映さんが抱えているものは今の話で十分、分かりました。これから、簡単な認知テストと、MRIでの脳画像検査、最後にカウンセリングを行います。ご協力願えますか?」
「は、はい」
それから時間をかけて、医者に指示される通りにMMSEと呼ばれる認知機能テストや、MRI、カウンセリングをしてもらった。診断が下されるまで、しばらくの間再度受付で待っていた。
「大丈夫、大丈夫よ」
母が私の手を握って、呪文のように唱える。目を閉じて、脳裏に浮かぶ彼女の笑顔が消えないように、祈るような気持ちで名前が呼ばれるのを待った。
「綿雪さん、どうぞ」
ようやく呼ばれて再び診察室の中へと入っていく。
神妙な面持ちをした医者と、MRIでの脳画像が映し出されたパソコンの画面が、妙な生々しさを運んできた。
「お座りください」
先ほどと同じように、三人で並んで椅子に腰掛ける。医者が「検査の結果ですが」と早速話を切り出した。
「脳画像では、特に異常は見られませんでした。逆に認知機能テストでは、記憶力の低下が見られます。それと、カウンセリングの結果を鑑みるに——ストレスやトラウマによる解離性健忘と考えるのが自然でしょう。震災によるショックのせいで、過去の楽しかった思い出まで危険なものとして脳が勝手に判断して、封鎖しようとしている。きみ自身の心を守ために防衛機能がはたらいていると考えられます。ただ、未来の映像に関してはやはり症例がなく……。PTSDによるフラッシュフォワードのようなものではないかと考えます」
「PTSD ……フラッシュフォワード……」
PTSDに関しては、聞いたことがある。
たしか、過去に経験したトラウマや受けたストレスが引き金になって、不安になったり悪夢を見たりすること……だった気がする。
「フラッシュフォワードは専門用語ではなく、夕映さんの症状を簡潔に表現しただけです。言うなればフラッシュバックの逆です。未来のことを、心が勝手に思い描いてしまう。夕映さんが心に抱えている不安や恐れを反映した可能性の一つを想像しているだけだと思われます。ただ、実際に未来の記憶の通りに現実が動いてしまうことに関しては、医学的な説明が難しいです」
力及ばずごめんなさい、と医者が頭を下げる。
それほど、私が経験しているこの症状は珍しいものだということだ。
「なんとなく、私の症状については分かりました」
ずっと、胸がドキドキとしていて、正直この短時間の間では心の整理がつけられない。
だけど、医者が私に伝えたことは的を射ていた。私自身、身に覚えがあることばかりだったので、すんなり受け入れることはできた。
ただ、隣に座っている両親はだんまりと貝のように固まっていて、聞くべきことはたくさんあるのに、言葉を紡ぐことができない様子だった。
やがて、黙りこくっていた父がようやくおもむろに口を開く。
「あの、夕映の症状はどうやったら治るんですか?」
いちばん気になっていたことだ。私も母も、ごくりと喉を鳴らす。
「精神的なものが原因なので、これと言った対処法がないのが現実です。何かのきっかけで記憶障害が治るかもしれませんし、トラウマを取り除くことで治るかもしれません。はっきり“治る”と断言できず、心苦しいですが……」
「そんな……」
母が震える声でつぶやいた。でも、私はなんとなく、そう言われるんじゃないかって予想していた。小説やドラマでよく見る記憶障害も、ふとしたことがきっかけでよくなることが多かった。だから、治療法については最初から期待していない。
「夕映さんの場合、未来のビジョンが見えるというところが特殊な症状ですので、これ以外にも治療法がある可能性もあります。経過を見て、どうにか記憶が治る方法がないか、一緒に考えましょう」
医者は決して私の手をぞんざいに手放したりしなかった。真剣な面持ちで私や家族の気持ちに寄り添い、声をかけてくれた。それだけで、今日病院に来て良かったと思う。
「ありがとうございます。私も、自分で色々と考えてみます」
「はい。その調子です。念のため、精神的な不安を和らげるお薬を処方しておきますね」
こうして、私の病院での長い一日が終わった。
その日の帰り道の車では重たい空気がどうしても漂っていた。
だからなのかは分からないけれど、父が「そういえばこの辺に美味しいステーキ屋さんがあるんだ。行かないか?」と提案してくれた。
「なにそれ、行ってみたい」
ステーキ、と聞いて、我慢していた腹の虫が鳴った。母が「もう」と呆れながらも、「行きましょう」と乗ってくれて。
私たちは家族三人で、美味しいお肉をたらふく食べた。沈んだ心に染み入る香り豊かな肉汁が胃の中をいっぱいに満たして、ままならない現実を、ひとときでも忘れさせてくれた。
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