1-3
向井さんに日誌を渡されてから、クラスメイトの誰とも話さない灰色の一日が終わり、帰路につく。ちなみに部活にも入っていない。言わずもがな、余計な人間関係を築きたくないからだ。
行きと同じようにせっせと自転車を漕いでアップダウンする道を駆け抜ける。福岡の街中から、自然豊かな田舎のこの町に引っ越してきてから、気分はずっと凪いでいる。それは、朝から聞こえてくる鳥の囀りのおかげでもあるし、登校中に見る美しい湖の風景のおかげでもあった。高い建物は一つもなくて民家という民家は戸建ての家だから、空は広々としているし、視界に入る緑の量だって地元とは段違いだ。ここには福岡にはなかった心休まる自然の風景がたくさんある。
ただ一つないものは、大好きだった親友の姿だった。
右手に真白湖を見ながら自転車を漕いでいた時、ふと視界に入り込んでいた人物に、心臓を射抜かれたような心地を覚えた。
「あの人、朝の!」
思わず独りごちてしまうくらいには驚いて、キキーッと錆びついた自転車のブレーキをかけた。
ブレーキ音に驚いたんだろう。湖畔に佇んでいた少年がびくんと身体を揺らしてこちらを振り返る。ついでに彼の近くのベンチで腰掛けていたおじいちゃんまで振り返ったので恥ずかしくて頭を低くした。
「あ……えっと」
紺碧色の瞳とばっちりと目が合って固まってしまう。特徴的なブロンズの髪の毛は確かに朝、脳裏に浮かんだ少年のものと同じだった。Tシャツに短パンという姿も、朝イメージで見た彼とまったく一緒。人懐っこそうなくるくるとした瞳を私に向けた。
「きみ、もしかして俺のこと知ってる人?」
不思議な質問をしてくる彼に「はい?」と答える。
“俺のこと知ってる人?”って、どういう意味?
もしかしてこの人、芸能人か何かなんじゃないだろうか。ハーフ顔でイケメンだし、モデルや俳優だと言われてもおかしくはない。——と、ぐるぐる考えていたところで、「ごめん、違ったならいいよ」と謝られた。
「こんなところで何してるんですか?」
私とほぼ同い年くらいの少年が、どうして真白湖の湖畔でじっとしていたのか気になって尋ねた。
すると彼はニッと白い歯を見せてこう言った。
「構図を考えてたんだ」
「構図? カメラが趣味とか?」
「惜しい。カメラじゃなくて、絵画」
「ああ、なるほど……」
絵画と言われてピンときた。真白湖ではよく、イーゼルにキャンバスを置いて筆を握る人物を目にするからだ。他には、さっき予想したようにカメラを構える人も多い。水鳥の撮影にはもってこいだろうし、湖畔には可愛らしい白い花も咲いている。季節ごとに咲く花も変わってくるんだろう。
「俺、よくここで絵を描いてるんだけど、きみは? 俺の散歩友達の中では見かけない顔だなあ」
散歩友達、と言いながら彼がベンチに座っているおじいちゃんのほうを見やる。おじいちゃんはそっと目を細めながら右手を掲げた。どうやら、この場所をよく訪れる人を散歩友達と呼んでいるらしい。
「私は、この辺が通学路だから。あんまり立ち止まることもないけど、ふと気になって……」
「へえ?」
言った後に、間違った、と思った。
ふと気になって……なんて、まるで私がこの人に一目惚れしたみたいじゃない。でも、今朝頭の中に浮かんだあのイメージを伝えるわけにもいかない。頭のおかしいやつだって思われる。だから曖昧に「その、以前会ったことがあるような気がしたの」と誤魔化した。
「会ったことがあるか。ふ、そうかもしれないな」
彼は私の言葉を否定することなく笑みをこぼした。その反応がどこか寂しそうでもあり、一瞬ぱちぱちと目を瞬かせる。けれど彼はすぐにまた人懐っこそうな明るい表情に戻った。
「良かったら名前を聞いてもいい?」
純粋で澄んだまなざしと、明るい声を聞いて、心臓がドキンと跳ねた。
「あの、その、私……」
名前を教えるということは、友達になるということと同義だ。気づいた途端、無意識に身体が小さく縮こまる。
「どうしたの?」
私の異変に気づいた彼が眉根を寄せて心配そうなまなざしで聞いた。
「ご、ごめんなさいっ」
深く事情を話すこともなく、彼から背を向けて自転車に跨る。思い切り地面を蹴って、ペダルに足をかけた。
「おい!」
何が起こったのか瞬時には理解できていない様子の彼の慌てた声が後ろから響いてくる。穏やかな湖の揺れる水面を見つめながら、一心不乱に自転車を漕いだ。
あれは、ダメだ。
私、あの人と関わっちゃいけないような気がする。
どうしてそう思うのか、はっきりと分かる。だってあの人、すぐに懐に入り込んできそうな話し方をしていた。たぶん、話したら楽しい人だろうし、高校生になって初めての友達になってくれるかもしれない。
だからダメだ。
友達はつくらない。
もう二度と、大事な友達を失うなんていう悲しい目に遭いたくないから。
その日からだ。
私の毎日に、不思議な現象が起こり始めたのは。
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