第一章 入れ替わる記憶
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眠っている間、記憶の海の中で、いつも暗い海底をもがくような息苦しさがつきまとっていた。
チチチ、と湖畔の方から聞こえてくる鳥の声と、部屋の窓から差し込む朝日のまぶしさに目を覚ます。
「ここは……」
毎日同じ部屋で眠っているのに、どうしてまだ慣れないのだろう。
高校一年生になったこの春、福岡県からほど遠いこの町に引っ越してきて一ヶ月が経とうとしている。それなのにまだ私の心は新しい土地にいることに慣れない。
同じ夢を見ては、私の胸をあの日に縛りける。もう何度夢で思い出しただろう。いい加減忘れたいのに、全然忘れさせてくれない。被災してから、夜はなかなか寝付けなくて、「この記憶が消えてしまえばいいのに。未来が決まっていたら安心できるのになぁ」と何度も願った。
「夕映―、朝ごはんよ。早く降りて来んしゃい」
母が、一階の階段下から私を呼んでいる。早く、行かなきゃ。じゃないとまたいつあの大地震が来て、ごはんも食べられなくなるか分からない。早く、早く、一階に降りてテーブルの前に行くんだ。
「あら、そんな思い詰めた顔してどうしたと? また怖い夢でも見た?」
母の鋭い質問にぎくりと肩を揺らす。
「ううん、なんでもない。ちょっと寝不足みたい」
「そう。まあそれならいいけど。昨日、水族館で遊びすぎて疲れが溜まっとーっちゃない」
フライ返しを持った母が、からからと笑いながら諭すように言った。けれど、そんな母の些細な言葉に、私ははたと首を捻る。
「水族館……? 昨日、行った……?」
おかしい。水族館なんて、昨日行った覚えはないのだけれど。異国の言葉でも聞いたかのように呆けた顔をした私を見て、今度は母が「はあ?」と不思議そうな表情になる。
「忘れたなんて言わんとって。貴重な休みに出かけたっちゃけん」
会社員の母は土日でも仕事が入ることが多く、あまり家族で出かけられることがない。父は土日休みだが、休みの日は家でゴロゴロしているか、会社のメンバーとゴルフに行っている。家族が揃って出かけられる機会は少ない。
そんなたまの休みに出かけたことを忘れるなんて、おかしい。自分でもそう思う。けれど、今日ばかりは母が冗談を言っているようにしか思えなかった。
ブツブツと私を嗜める母を尻目に、食卓についた。目の前には目玉焼きとトースト。甘く温かいホットココアが朝のぴきぴきと張り詰めた気持ちをいくらか慰めてくれた。
エプロンを外している母を見ながらトーストに齧り付いた時、ふと目の前の景色が真っ白に飛んだ。
「えっ?」
何が起こったのか、瞬時に理解することができなかった。白くなった視界に、ぼやぼやと緑と青の風景が浮かび上がる。やがてその景色ははっきりと輪郭を帯びて、木々の間に見える湖の形へと変化した。私の知っているその光景は、この町の真ん中に鎮座している
ブロンズ色の髪の毛がさらさらと風に揺れる。Tシャツに短パンというごくありふれた少年の出たちをしたその人は、たぶん私と同じぐらいの歳だろう。その人が、ゆっくりと正面を振り返る。紺碧色の瞳が特徴的で、外国人かな? と予想する。目鼻立ちはくっきりとしていて、まるでお伽話に出てくる王子様のようだった。
もっと彼に近づいてよく見てみたい。
そう思ったのだけれど、脳裏に浮かんだその光景はそこでぱちんと霧散した。
「あ……」
気がつけば目の前には先ほどまでかぶりついていたトーストと目玉焼きがあるだけだ。なんでもない、いつもの朝の風景。
今のは一体なんだったというの……?
「夕映、どげんしたと? 手が止まっとーよ。もうそろそろ行かんと遅刻するよ」
「はあい」
不可思議な現象に見舞われて、胸のドキドキが止まらない。
すっかり生活に馴染みのある真白湖と、見覚えのない少年。
新しい環境に慣れるので精一杯になって、疲れている私が見た幻想だろう。そうは思うのだけど、妙な胸騒ぎがしてならなかった。
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