第9話

「塾長、あいつ大丈夫ですかね」

「あいつって?」

「宇居です」

「宇居くんがどうかした?」

「いや、どうかしたってわけではないんですけど……」


 明らかに言いにくそうな雰囲気を醸し出す颯真の口ぶりに、彩音は眉根を寄せた。心当たりがあるとすれば、朱里のことだ。


「木野崎さんのこと?」

「……そうです」

「ん~、模試結果がどう出るか気にはなるけど、今のところはそこまで心配しなくてもいいかなって思っているけど」

「模試とか、そういう話じゃなくて」


 そこで不自然に言葉を切った颯真に、彩音は目線で先を促す。

 颯真は口をぎゅっと結び、それからふっと息を吐いてから意を決したように話し出した。


「木野崎さんと、個人的に連絡とってるんじゃないかなって」

「えっ」


 無用なトラブルを避けるため、生徒と講師が個人的にメッセージをやりとりすることは禁止している。雇用契約を結ぶ際にも、一番と言っていいほど強く確認する点だ。


「それ、本当?」

「確証はないですけど、ちょっと怪しいですね」

「あぁ、それはまずいなぁ」


 雰囲気よく授業をしているとは思っていたが、その可能性があったのか……。


「教えてくれてありがとう。ちょっと対策考える」

「なんかあったら言ってください。手伝えることなら手伝いますし」


 口調はさっぱりしているが、颯真の気遣いは言動の端々から感じられた。いつも助かります、と頭を下げると、いえいえ、と颯真もそれに倣った。


「はぁ、川澄くんがいなくなったときのことを考えると今からこわい。やっていけるかな……」

「塾長がそんな弱気なこと言ってる場合じゃないでしょ」

「そうなんだけどぉ」

「ま、とりあえず今日は帰りますね」

「あぁ、ごめんね。長引かせちゃって。お疲れ様」

「塾長も早く帰ってくださいね」

「うん、ありがとう」


 あ、と小さく呟いて、颯真がなにかをカウンター置いた。かわいらしいパッケージのいちごみるくの飴が二つ、転がっている。


「あげます」

「わっありがとう。ちょうど小腹すいてたんだよね。でもなんで?」

「……餌付け、的な?」


 早速一つを口に放り込んでいた彩音は、きっと颯真をにらむ。


「もしかして、馬鹿にされてる?」


 ふっとわずかに口角を上げ、まさか、と颯真は言った。


「冗談ですよ。じゃ、お先です」


 釈然としないまま後ろ姿を見送る。

 舌で転がすうちに甘さがどんどん口に広がり、糖分不足の頭がほんわりと緩んだ。


 よし、と独りごちて、作業に取り掛かる。


 区切りのいいところまで進め、壁にかかった時計を見上げるとすでに二十二時をすぎていた。

 パソコンの電源を落とし、戸締りをして駅へ向かった。

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