第1部:失われた旋律
第0話 歪な満月
俺が入院を始めてから、半年ほどが経った。今日はいよいよ退院の日だ。
「お世話になりました。松島さん」
「いえ、とんでもありません。私は自分の役目を果たしただけですから」
俺は、松島さんとえがおで言葉を交わして病院を後にした。
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半年ぶりに帰ってきた家は、懐かしい感じがした。そして、玄関の前には、僕の方を見て笑う、1人の少女がいた。その少女はこう言った。
「お帰りなさい!お兄ちゃん!」
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俺は、妹の唯華に連れられ、家の中を歩いていた。
「ここは、お兄ちゃんが集めていたグッズを置いてる部屋だよ」
そこには、記憶を失う前の俺が集めていたのであろう、グッズが所狭しと並んでいる部屋があった。
「……」
俺は、それらをじっと見つめていた。何かしらのヒントを得られるんじゃないかと期待したが、そんなことはなかった。でも、俺の中に、『これを捨ててしまおう』という感情は、少しも湧いてこなかった。
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俺は、唯華と一緒にまた別の部屋に来ていた。
「ここは、お兄ちゃんの自室だよ。お兄ちゃんは、ここで毎日のようにゲーム配信をしたり、楽器の練習とか、作曲の作業をしていたんだよ」
俺は、自分が眠っていたであろう部屋の扉を開けた。中には、配信の機材が並んでいた。使っているコンピュータは、かなりスペックの高いものに見える。そして、配信機材だけでなく、ドラムセットも置いてあった。そして、机の上には、4人が写った写真があった。
「…ッ!」
その写真を見た瞬間、俺の頭に、微弱な電流が流れたような気がした。そして、俺の口からある言葉が漏れた。
「Kismet…Pulse…」
この言葉が何なのかは分からない。でも、俺の心の奥底に、深く、刻まれていたような気がした。そして、その言葉を聞いた唯華が反応した。
「…!!お兄ちゃん、思い出したの!?」
「いや、思い出せたわけではない」
「そっか…」
唯華がとても残念そうに呟いた。
「でも、この言葉が、俺にとって、とても大事なものだったのはわかる」
「そっか…。一歩前進…なのかな…」
唯華が呟いた。そして、この言葉の意味を教えてくれた。
「Kismet Pulseは、私やお兄ちゃんで組んでいたバンドの名前だよ。これでも、メッチャ人気のバンドだったんだよ?」
唯華は、できる限り明るく振る舞おうとしている。でも、その姿は、偽りのものであることはわかる。唯華も辛いはずだ。両親はいないし、唯一の肉親である俺は記憶喪失状態だ。泣きたいって思ったこともあるだろう。それでも明るく振る舞うのは、俺を不安にさせないようになんだろう。
…本当に、優しい妹だ。できることなら、早く記憶を取り戻したい。俺の記憶は、こんな、簒奪の記憶だけではないはずなんだ。
「唯華」
「ん〜?ど〜したの?お兄ちゃん」
「無理は、しなくてもいいんだぞ?」
「え?私、無理なんてしてないよ?」
「見てればわかる。無理に明るく振る舞わなくてもいいんだ。確かに今の俺に記憶はない。それでも、俺はお前の兄なんだ」
「…!」
「頼りないかもしれないが、お前の話を聞くくらいはできる」
「ア、アハハ…。お兄ちゃんには、敵わないなぁ…」
唯華の声が初めて暗くなった。やっぱり、我慢してたんだな
「ちなみに、なんで、私が我慢してるって分かったの?」
「それは、俺も仮面をかぶっているからな。周りの人の仮面にも敏感なんだよ。だから分かったんだ」
「そっか…。そうだったね。でも、ありがとう。少しの間でいいから、ちょっと、胸を貸して?」
「ああ。ちょっとと言わず、いくらでも貸してやるさ」
「うぅ…」
そういうと、唯華は俺の胸の中で静かに泣き始めた。
「辛かったよぉ…。私、お兄ちゃんまで、いなくなっちゃうんじゃないかって、不安で…。でも、泣くわけにもいかなくて…」
「……」
俺は黙って唯華の頭を撫でながら、独白を聞いていた。
「お兄ちゃん…。記憶が戻ったら、また、笑ってくれる?今みたいな、仮面の笑顔じゃなくて、心の底からの笑顔を、また見せてくれる?」
「ああ。もちろんだ」
俺は、この子の兄なんだ。
……そうなんだよな?俺は、騙されているわけじゃ、ないよな?
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この日、歪な満月が輝き始めた
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