月影の一欠片
舞川K
エピソード・ゼロ:墜星
プロローグ:堕ちゆく満月
————幸せ…その言葉を噛み締めていたのはいつのことだろう。
————『この幸せはずっと続く』そう思っていたのはいつのことだろう
今の俺には何もない。かつてはあった…いや、あったはずの幸せの記憶も。
——————今の俺には、朧月のようだった。
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——————声が、聞こえる。今は深夜だと言うのに大声が
——————赤い光が見える。今は朝方でも夕方でもないのに
僕の目の前に広がっていたのは、”簒奪”の光景。幸せを奪う、悪魔が佇む光景だった。そして、1人の少女が、僕の服の裾を握りながら、震えている光景だった
『何で…どうして…』
僕の口から言葉が漏れる。涙は出てこなかった。涙の代わりに溢れるのは、自分を黒く染めていくような、ドス黒い”怒りと憎しみ”だった。
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ある夏の日、僕は1人で街を歩いていた。毎日のように発展していく街は、いつでも活気に満ちていて、日中も夜間も、人の営みが行われていることを示す明かりは消えることなく輝いている。ちなみに、今は日中である。ある買い物のために街に繰り出し、目当てのものを購入できて、天にも昇りそうな心地で歩いていた。空では太陽が眩しく輝き、僕の肌を焼くほどの暑さを感じる。
「そういえば、今日は天気が急変するかもって天気予報で見たな。雨が降る前に家に帰ろう」
そんな独り言をこぼしながら、歩くスピードを少し上げた。歩いていると、道路の反対側にある公園の方から賑やかな声が聞こえてきた。そちらを見ると、僕よりも年下に見える子たちがサッカーをしているようだった。
「あの子たちは、小学生…なのかな?今は夏休みだから、この時間に街にいても不思議はないかな」
僕の視線の先には、公園で走り回っている子どもたちがいた。元気に遊んでいる子たちを見ると、こっちまで元気がもらえるような気がする。
すると、公園で遊んでいる1人の男の子が強めにボールを蹴り飛ばした。そのボールは、反対側にいた子の頭上を通り過ぎ、道路に落ちて転がっている。そのボールを追いかけて、公園で遊んでいた女の子が道路に飛び出そうとしていた。そして、その子の反対側から一台の車が走って来ているのが見えた。女の子がしゃがんでいるからか、車の運転手が気づく様子はない。『危ない!』と声をかけるより先に、僕の体は走り出していた。
何とか間に合った僕は、女の子を思い切り突き飛ばした。突き飛ばされた女の子は、驚いた顔でこちらを見ていた。
———————世界がゆっくり進んでいるような気がした。
僕の眼前には車が迫って来ていた。もう避ける時間はないと直感的に感じた僕は、少しでも衝撃を和らげようと、受け身の準備をして、車とぶつかった。
———————体の左側に強い衝撃を感じた。腕の骨が砕けるような感覚がした。
僕の体は宙を舞い、数十メートル先まで飛ばされた。
———————全身…特に頭に強い衝撃を感じた。
体が動かせなくなり、視界が明滅した。
それから、周りの人たちの悲鳴と、大声が聞こえて来た。なんと言っているのかは分からない。意識が朦朧として、話している言葉が理解できなかったのだ。
こちらに駆け寄ってくる大人たちの姿が見えたところで、僕の意識は途絶えた。
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———落ちてゆく
意識は閉ざされ、暗い世界に堕ちていくような気がした。
———堕ちてゆく
自分の中の大切な何かが、深い闇の中に堕ちていく気がした。
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次に目を覚ました時、見たこともない部屋に寝かされていた。
「ここは…どこだ?」
この部屋に寝かされる前の記憶を思い出そうとするが、何も思い出せない
「何が…起こったんだ?」
頭の中は真っ白だった。
「…!目を覚ましたの!?」
突然、自分ではない誰かの声が聞こえた。
「あなたは…?」
「えっ?私のこと…分からない?」
その人は、心底驚いたような表情を浮かべていた。少なくとも、今の記憶上では、初対面の人だ。
「すみません…分かりません」
「ま、まさか…!」
その人は何かを思いついたように、『安静にしていて!』と言ってどこかに走り去って行ってしまった。
「……」
1人になった途端、言いようのない寒気に襲われた。大切ななにかを失っているような気がしたのだ。
——でも、それが何なのかは分からない。そのことが不安で仕方なかった。
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それから、数分でさっきの人は別の人を連れて戻ってきた。その人は、メガネをかけ、白衣に身を包んでいた。
「こんにちは。私は、あなたの診療を担当させていただいている、松山と申します。早速ですが、ご自分の名前は思い出せますか?」
「自分の…名前?」
名前を思い出そうとして、思考が止まった。
——思い出せないのだ
「な…何で…?」
名前も、好きなものも、普段の生活の様子も。思い出せないのだ。唯一記憶の中にあるのは……
「思い…出せない。どうして、どうして!どうして思い出せないんだ?分からない。分からない。分からない!」
「落ち着いてください!大丈夫です!落ち着いて、状況を説明させてください!」
松山さんという人が、落ち着かせようと必死に声をかけてきた。でも、パニック状態が解消されるまでに、数分の時間を要した。
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「すみません…。取り乱してしまいました」
「いえいえ。お気になさらず。とりあえず、あなたの状況についてお話ししてもいいですか?もし無理そうでしたら、明日以降でも…」
そこまで言いかけた松山さんの言葉を遮るように、俺は声を上げた
「大丈夫です。今から聞かせてください」
本音をいえば少し怖い。でも、明日以降にしたら、一生聞こうとしないような気がしたのだ。
「それでは、あなたの現状についてお話しさせていただきます。結論から言ってしまうと、あなたは現在、記憶を失っている状態です。いわゆる、記憶喪失です」
松山さんは落ち着いた声色で説明している。
「記憶…喪失…」
口からそんな言葉が漏れた。
「はい。原因としては、あなたが巻き込まれた交通事故です。地面に叩きつけられた際に頭を強く打ったことが原因でしょう」
「事故…ですか」
「はい。道路に飛び出してしまった女児を庇って、代わりに車に撥ねられてしまったのです」
「記憶は…戻りますか?」
一縷の望みにかけて、聞いてみる
「……それに関しては、現状ではお答えできません。戻る可能性もありますが、それがいつになるかは…」
「そう…ですか」
やっぱり、といった感じだった。
「…ところで、今の状態で思い出せる記憶はありますか?」
「…あるには、あります。でも、あまり話したくはありません」
今の状態で思い出せるのは、”簒奪の記憶”のみ。そして、それに付随する怒りと憎しみだけだった。
「では、聞かないでおきます」
「ありがとうございます」
松山さんは空気を読んでくれたのだろう。
「では、あなたのお名前を伝えさせていただきます。」
「名前…」
「はい。あなたは、”月島 優人”さんです」
「月島…優人…」
どうしてだろう。どこか懐かしい感じがする。
「ありがとう、ございます」
「いえいえ。これからしばらくは検査入院という形でこの病院にいていただきます。ご両親は…『いないよ』…えっ?」
思わず松島さんの言葉を遮ってしまった。
「いない…というのは?」
松島さんが思わずと言った様子で聞いてきた。
「そのままの意味です。2人はもういません。昔、死にました」
「そ…そうでしたか。分かりました。では、優人さんにお聞きします。この病院に入院することに同意していただけますか?」
「はい。どうせ、今の状態では元の生活には戻れませんし。それなら、この病院で一般的な生活ができるようにします」
「できるようにする?」
「はい。まずは、”感情”を復活させたいんです。周りに迷惑はかけないようにしますので、ご安心ください」
「そう…ですか。それなら、いいのですが…。では、今日のところは失礼します。また明日来ますね」
「分かりました。ありがとうございます、松島さん」
松島さんは、病室を去って行った。それを確認してから、俺は窓の外を見つめた。
——なにかを、自分の脳に焼き付けるように
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