第36話「愛の失語、舞台裏の真実」

生徒会長として多忙な日々を送る夏希は、卒業歌劇『ロミオとジュリエット』のロミオ役として、稽古に励んでいた。ジュリエット役は、データと感情の狭間で揺れる雀堂天音。体育館の夕暮れ時、足音の反響も、台詞の合間の沈黙も、全てが演出になってしまう場所で、夏希は「語ること」そのものに試されていた。


「ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」


天音の声は、機械的でありながら、どこか芯を震わせていた。ジュリエット役として、彼は完璧な所作で台詞をこなす──はずだった。だが、目の前に立つ夏希を見た瞬間、天音はログ上では計測できない“揺れ”に包まれた。夏希が、今、自分を見ている。その視線は、台詞ではない。統計ではない。“感情”だった。

天音のタブレットに表示された幸福度グラフは、強いノイズを示していた。彼は思わず呟く。

「……お姉様の視線により、感情予測指数、逸脱範囲です」

夏希は、台詞を続けようとした。喉の奥から、低い声が漏れる。


「ジュリエット……僕は……愛して──」


言えなかった。喉が詰まり、語りが言葉にならなかった。その瞬間、稽古場は沈黙に包まれた。語りの主語が、失語するという異常。夏希の“語る力”が、初めて“言えなさ”によって遮られた瞬間だった。

隅に立っていた絢人は、その沈黙の中に立ち上がった。稽古台本を手にしていたが、それをそっと床に置いた。体育館の空気が揺れた。絢人の声は、台詞ではなく、語りだった。


「夏希くん……その台詞、君に言わせるの、すごく怖い気がしてた」


夏希の目が、絢人に向いた。天音は、タブレットを下ろし、ただその“言葉”に耳を傾けていた。


「ジュリエット役は、確かに雀堂くん。でも……僕は、ずっと君に言いたかった。“好き”って。それは、舞台の中じゃなくて、君が台詞で苦しんでる今の君にこそ、伝えたい感情なんだ」


絢人は、夏希の瞳を真っ直ぐに見つめ、語る。


「僕は、台詞よりも先に、君に好きって言いたい。舞


台の中で“ジュリエット”としてじゃなくて、僕の語り手としての自分が、君を好きだと認めたかった」

その言葉の後、夏希はゆっくりと息を吐いた。


「……絢人くん、それは……語りすぎかもしれない」

「うん、でも、語らなさすぎるよりはずっとマシだよ」


天音は、黙って目を閉じていた。幸福度ログでは記録できない感情が、彼の中で発芽していた。“語られること”の衝撃。“好き”と語られることの揺れ。


「記録不能、です……お姉様の台詞、絢人くんの言葉、僕のログには……対応するデータが存在しません」


それは、語りの受容宣言だった。天音が、“語られる者”として、初めてその立場を受け止めた瞬間。

稽古場にいた他の生徒たちも、この予期せぬ展開に息を呑んでいた。演劇部部長の綾芽は、この感情の爆発を、演出家としてどう捉えるべきか、静かに思案していた。彼の瞳は、夏希と絢人の間に生まれた、台本にはない「愛」の形に、深い興味を抱いているようだった。

生徒会室では、副会長の東雲が、稽古場からの報告を受け、冷静に分析していた。「夏希生徒会長の感情の揺らぎ……そして御園絢人の介入。これは、学園の秩序に新たな変数をもたらす。しかし、その感情が、学園に新たな秩序をもたらす可能性も秘めている」

白玉皇一と愛園星歌は、夏希と絢人の間の感情の露呈に、激しい嫉妬と対抗心を燃やしていた。「くっ、あいつら、舞台の外でまで目立ちやがって!」「わたくしの美しさの前では、どんな愛も霞むはずよ!」

鴉月透は、夏希と絢人の間の感情の動きを「神性による新たな結合」と解釈し、教典に新たな章を書き加えていた。「愛の失語、そして愛の顕現……これは、第二十三教義『真実の語り』として記録せねば……!」

十河飛雄は、夏希と絢人の間の感情の動きを理解しきれないまま、しかし純粋な「好き」で夏希を応援していた。「なっちゃん、大丈夫か? オレ、なっちゃんの『愛してる』、いつか聞きたいぞ!」

保健室の先生・三葉薫は、夏希のメンタルケアの視点から、この感情の揺らぎを優しく見守っていた。「夏希ちゃん、あなたは、もう『守られる姫』じゃない。これからは、あなたの『愛』を、あなた自身の言葉で語るのね。お姉さん、あなたの成長が楽しみだわ」

夜。夏希は、日記を開いた。

> “今日は、台詞が言えなかった日。でも、それよりも大事なことを、絢人くんが言ってくれた。僕が語れなかった『好き』を、絢人くんが語ってくれた。天音も、それを黙って受け止めてくれた。語られることの揺れって、怖い。でも、それを守ってくれる人がいるって、すごく心強い。次の稽古では、僕の“愛している”を、少しだけ声にしてみたい。まだ、言葉にならないけど。”

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