第35話「卒業歌劇、僕のロミオとジュリエット」

生徒会長として、夏希の男子校での日常は多忙を極めていた。朝礼での挨拶、生徒会室での会議、生徒からの要望への対応……。しかし、その責任ある日々の中で、夏希は自分だけの「好き」を見つける旅の、新たなステージに立っていることを感じていた。

そんなある日、校内は卒業を控えた最上級生、3年生を見送るための準備でざわめき始めていた。生徒会長として、夏希は卒業式の企画に頭を悩ませていた。

放課後、演劇部部長の綾芽が生徒会室を訪れた。彼の優雅な姿は、多忙な生徒会室に一服の清涼剤のような存在だった。


「夏希生徒会長。卒業する先輩方への送迎歌劇を考案しましたわ。最上級生を見送るにふさわしい、青春の輝きと別れ、そして永遠の愛をテーマにした演目……『ロミオとジュリエット』はいかがかしら?」


綾芽の提案に、夏希は目を見開いた。ロミオとジュリエット。男子校で、あの悲劇の恋物語を演じるのか。しかし、綾芽の瞳には、この演目が持つ可能性への確信が宿っていた。


「この物語は、性別や立場を超えた『愛』を描いています。それは、夏希生徒会長がこの学園で示してきた『未知なる資質』そのもの。そして、卒業という別れを経験する先輩方への、最高のメッセージとなるでしょう」


綾芽の熱意に、夏希は生徒会長として、送迎歌劇の公認を決めた。そして、綾芽はさらに衝撃的な発表をした。


「そして、この『ロミオとジュリエット』の主役、ロミオ役は夏希生徒会長に。そして、ジュリエット役は……雀堂天音くんに決定しましたわ!」


夏希は、自分の名前がロミオ役として呼ばれたことに驚き、そしてジュリエット役が雀堂天音だと聞いて、完全にフリーズした。天音は、夏希の隣でタブレットを構えたまま、わずかに表情を固まらせた。


(僕がロミオで、雀堂がジュリエット……!? まさか、こんな形で『姫』の役割が回ってくるなんて……!)


配役発表は、校内に大きな波紋を広げた。特に、夏希と天音という異色の組み合わせは、生徒たちの間で大きな話題となった。

生徒会室では、副会長の東雲が、この配役決定を冷静に分析していた。


「夏希生徒会長がロミオ、雀堂がジュリエットか……。綾芽の狙いは、夏希の『未知なる資質』と雀堂の『男の娘』としての魅力を最大限に引き出すことか。この異質な組み合わせが、学園に新たな秩序をもたらす可能性を秘めている」


白玉皇一と愛園星歌は、主役の座を夏希と天音に奪われたことに、激しい嫉妬と対抗心を燃やしていた。


「ロミオは俺こそが相応しい! あの夏希ごときに、俺の舞台を奪われるとは!」

「わたくしこそが真のジュリエットよ! 雀堂くんごときに、わたくしの美しさが霞むわけがないわ!」


二人は、歌劇の成功を阻止しようと、水面下で動き始めた。

鴉月透は、夏希と天音の配役を「神性による新たな結合」と解釈し、教典に新たな章を書き加えていた。


「ロミオとジュリエット……これは、夏希様と雀堂様の『聖なる契り』! 第二十二教義『愛の顕現』として記録せねば……!」


そんな中、十河飛雄は、夏希と天音の配役に純粋な興味を示した。


「なっちゃん、ロミオとジュリエットって、なんか面白そうじゃん! なっちゃんなら、絶対すげーロミオになれるって! 雀堂もジュリエットか! オレ、二人の舞台、一番前で見るからな!」


飛雄は、夏希の困惑をよそに、無邪気に笑う。彼の「好き」は、夏希の「結果」や「評価」ではなく、夏希の「存在」そのものを肯定してくれる、真っ直ぐな感情だった。その言葉は、夏希の心を少しだけ軽くする。

御園絢人は、夏希がロミオ役を演じることへの期待と、天音がジュリエット役を演じることへの複雑な感情を抱いていた。夏希への恋心を持つ絢人にとって、夏希が他の生徒と「愛」の物語を演じることは、少なからず胸を締め付けるものだった。しかし、彼は夏希の隣にそっと寄り添い、優しく語りかけた。


「夏希くん、心配いらないよ。君の『ロミオ』は、きっと最高の舞台になる。僕が、君の『愛』を最大限に引き出す手伝いをしよう。君の『好き』を、舞台で表現してほしい」


絢人の言葉は、夏希の心に深く染み渡った。飛雄の無邪気な「好き」が夏希の心を軽くし、絢人の包み込むような「好き」が夏希の存在を肯定する。様々な「好き」の形が、夏希の周りに溢れている。

そして、保健室の先生・三葉薫は、夏希と天音の配役を優しく見守っていた。彼女は、夏希が「守る王」として、そして「姫」としての経験を活かし、この舞台でどのような成長を見せるのか、期待を寄せていた。


(夏希ちゃん……あなたは、もう『守られる姫』じゃない。これからは、この学園を、そしてみんなを守る『王』として、この舞台で輝くのね。お姉さん、あなたの成長が楽しみだわ)


その夜、夏希は日記を開いた。

“ロミオとジュリエット。僕がロミオで、雀堂がジュリエット。なんだか、変な感じだ。でも、綾芽くんは『可能性』だと言ってくれた。僕の『王』としての道が、この舞台でどう繋がるのかは分からない。でも、飛雄や絢人くん、そしてみんなが僕にくれる『好き』の形は、それぞれ違う。この男子校は、僕にとって、自分だけの『好き』を見つける場所なんだ。そして、僕はもう、モテ地獄の主役じゃなくて、自分だけの物語の主人公でいられる気がする。”



──稽古。体育館。夕方。

足音の反響も、台詞の合間の沈黙も、全てが演出になってしまう場所。そこは、語り手として認定された夏希が、「語ること」そのものに試される場所だった。


*


「ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」

天音の声は、機械的でありながら、どこか芯を震わせていた。

ジュリエット役として、彼は完璧な所作で台詞をこなす──はずだった。


だが、目の前に立つ夏希を見た瞬間、天音はログ上では計測できない“揺れ”に包まれた。

夏希が、今、自分を見ている。その視線は、台詞ではない。統計ではない。“感情”だった。


天音のタブレットに表示された幸福度グラフは、強いノイズを示していた。彼は思わず呟く。


「……お姉様の視線により、感情予測指数、逸脱範囲です」


夏希は、台詞を続けようとした。


「ジュリエット……僕は……愛して──」


言えなかった。喉が詰まり、語りが言葉にならなかった。


その瞬間、稽古場は沈黙に包まれた。語りの主語が、失語するという異常。

夏希の“語る力”が、初めて“言えなさ”によって遮られた瞬間だった。


*


隅に立っていた絢人は、その沈黙の中に立ち上がった。

稽古台本を手にしていたが、それをそっと床に置いた。


「夏希くん……その台詞、君に言わせるの、すごく怖い気がしてた」


体育館の空気が揺れた。絢人の声は、台詞ではなく、語りだった。


「ジュリエット役は、確かに雀堂くん。でも……僕は、ずっと君に言いたかった。“好き”って。

それは、舞台の中じゃなくて、君が台詞で苦しんでる今の君にこそ、伝えたい感情なんだ」


夏希の目が、絢人に向いた。天音は、タブレットを下ろし、ただその“言葉”に耳を傾けていた。


絢人は、語る。


「僕は、台詞よりも先に、君に好きって言いたい。

舞台の中で“ジュリエット”としてじゃなくて、

僕の語り手としての自分が、君を好きだと認めたかった」


*


その言葉の後、夏希はゆっくりと息を吐いた。


「……絢人くん、それは……語りすぎかもしれない」


「うん、でも、語らなさすぎるよりはずっとマシだよ」


天音は、黙って目を閉じていた。幸福度ログでは記録できない感情が、彼の中で発芽していた。

“語られること”の衝撃。“好き”と語られることの揺れ。


「記録不能、です……お姉様の台詞、絢人くんの言葉、僕のログには……対応するデータが存在しません」


それは、語りの受容宣言だった。天音が、“語られる者”として、初めてその立場を受け止めた瞬間。


*


夜。

夏希は、日記を開いた。


> “今日は、台詞が言えなかった日。でも、それよりも大事なことを、絢人くんが言ってくれた。

> 僕が語れなかった『好き』を、絢人くんが語ってくれた。天音も、それを黙って受け止めてくれた。

> 語られることの揺れって、怖い。でも、それを守ってくれる人がいるって、すごく心強い。

> 次の稽古では、僕の“愛している”を、少しだけ声にしてみたい。まだ、言葉にならないけど。”


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