第19話 モデル

放課後の美術準備室は、夕日が滲むガラス窓から、静かに色を落としていた。

藤堂悠は、教材のスケッチブックを整えるふりをしながら、視線をドアの向こうに向けた。


やがて、ノックの音。彼が手元の鉛筆を止めたとき、そこに現れたのは──夏希だった。


制服の裾を気にするように指で撫でながら、まっすぐに視線だけを寄越してくるその姿。

藤堂は、息を整えるふりをしてから微笑んだ。


「ありがとう、来てくれて」


そして、机の上に置かれた一冊の画集──それは日本美術史の裸体表現を集めたものだった。


藤堂は、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「夏希くん。君の身体は、単なる被写体じゃない。芸術的な構造そのものだと思ってるんだ。男としての骨格と、かつての君の柔らかな残響──その交差が、今この教室にしか存在しない希少性なんだよ」


そして、少しだけ近づいた。


「僕は、君にお願いがあって。……フルモデルになってほしいんだ。服を脱いで、素肌のままで──この教室で、一度だけでいい。君の身体を、美として描かせてほしい」


夏希が固まる。眼差しは揺れる。けれど藤堂は、追い詰めるように囁いた。


「日本美術史に刻まれるような美を描ける機会なんて、そうそうない。君は……その価値がある人なんだ」


耳元へ、言葉をそっと滑らせる。


「だから──一糸纏わず、脱いでくれ。僕に、君の全てを描かせてほしい」


部屋の沈黙が、濃い水のように流れる。夏希は、小さく唇を噛んだまま、何も言わなかった。


その静けさこそが、藤堂にとって最も美しい肯定に思えて──

彼は、心の底で笑みを浮かべていた。



---夏希視点「描かれる美と語られる痛み」


放課後の美術準備室は、薄い夕焼けに包まれていた。

窓の外では誰もいない。筆とキャンバス、スケッチ台。それだけが整然と並んでいる部屋。そんな静けさの中で、僕は藤堂先生の声を聞いていた。


「夏希くん、モデルになってくれないかい? ……服を脱いだ、ありのままの姿で」


その言葉が落ちたとき、僕の心の中で何かが一瞬止まった。


「……え、フルヌードですか?」


自分でも分かるくらい、声が硬くなっていた。先生は、いつもの完璧な微笑みを浮かべたまま頷いた。


「君の身体は、今しか描けない美なんだ。日本美術史に刻むべき構造だと、僕は本気で思ってる。男としての輪郭と、かつての君の柔らかさ──それが同居している奇跡は、芸術にとってかけがえのない素材だよ」


美。そう言われて、僕は何も言えなくなった。

ボロ布一枚で演じた奴隷姫の舞台──あの時も、僕は見られていた。だけどあれは、僕が“誰かになる”ための演技だった。でも今は……違う。


「今の僕って……そんなに“誰かの理想”になれるほど綺麗ですか?」


問い返すと、先生は一歩だけ近づいてきた。

その距離の近さが、言葉よりも重くて──僕は喉を鳴らすことしかできなかった。


「僕にとっては……神性だよ」


その囁きに、全身が硬直する。


──服を脱げば、きっと“美”になるのだろう。

でも、それって……僕の意思とは関係ないんだ。

誰かにとって美しいと思われることで、僕が“語られてしまう”ことが怖かった。


沈黙の中で、僕は椅子の縁に手を添えた。

震えているのは指先だけ。でも、それは紛れもなく、僕の“痛み”だった。


「……服を脱ぐことが、美になるなら。僕が、僕でいる理由って……何ですか?」


先生は何も言わなかった。その沈黙が、答えだった。


僕の身体は、今、誰かの目にとって“絵”になる。

でも、僕の心は、絵じゃない。語られたくない。触れられたくない。

“美”という言葉が、こんなに重く苦しいとは、思わなかった。


それでも僕は、まだ言えない。断ることも、拒むことも。

だからただ──沈黙の中で、自分の“好き”を握りしめた。



---放課後の美術室。いつもの騒がしさは跡形もなく、窓に射す夕焼けだけが、静かに揺れていた。


先生は、机の上に一枚のスケッチを置いた。鉛筆の痕跡が、肌の起伏と骨の角度を丁寧になぞっている。

キャンバスの中の僕は──一糸纏わぬ姿で、仰向けに光を浴びていた。


裸の身体。すこし曲げた指。視線の定まらない瞳。

その全てが“夏希”として描かれているはずなのに、僕はそこに“僕”を見つけられなかった。


「……すごいですね。絵としては」


やっとのことで声を出すと、先生はいつもの笑顔を浮かべた。

「君の美しさは、構造と精神の融合なんだ。このデッサンがそれを語ってくれている」


でも、僕の心には語りかけてこなかった。絵は、美しい。でも──僕の中の“好き”とは、違った。


キャンバスの僕は、何も言わない。ただ、裸で見られている。

それは美かもしれない。でも、僕が“誰として描かれたか”は、そこに書かれていない。


「先生。この絵が、“僕のこと”を描いてるなら──僕がどんなふうに考えてたか、知ってますか?」


沈黙。先生は言葉を探していた。でも僕は、それを待たなかった。


「舞台でボロ布を着てた時。僕は、“誰かの役”を生きてたけど……少しだけ、僕の声も入ってたんです。

でも、この絵は──僕の肌だけで、僕の声が、どこにもない」


僕はその絵を、そっと伏せた。見ないように。見られるように。


「見られるってこと、怖くないわけじゃないです。でも、“僕を描いた”って言うなら──僕の“揺れ”も描いてくれないと、ただの記号ですよ」


その夜、僕は日記を開いた。


> “僕を描いた絵。綺麗だった。でも、その絵の中の僕は、僕じゃなかった。僕の声も、迷いも、全部欠けていた。

> もし次に、誰かが僕を描いてくれるなら──僕の“好き”を、少しだけ描き込んでくれたらいい。そう思った。”


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