第9話
休日の朝は、いつも時計の針が少し遅く動いているように感じる。
カーテンの隙間から射し込む光はやわらかく、机の上に散らばったアクセサリーや本の背を、淡く金色に縁取っていた。
髪をほどき、指先で軽く
絡まったところを見つけては、櫛に持ち替えてゆっくりと
肩口をかすめて落ちる髪が胸元をやわらかくなぞり、ブラシが髪を通るたび、さらさらという微かな音が部屋に満ちた。
洗面所で、鏡の中の自分と視線を合わせる。頬に指を滑らせ、昨夜のスキンケアの効果を確かめる。
化粧水を
自然と背筋が伸び、腰のくびれが少し強調される姿に、鏡越しの自分が少し大人びて見えた。
クローゼットを開け、ハンガーに並んだ服を眺める。
今日は……少しラフだけど、写真を撮られてもいいくらいの服にしよう。
茜と会う日は、なんとなくそうなる。
白いブラウスの袖を通すと、生地が胸元のふくらみに沿ってやわらかく形を作る。
ふわりとしたスカートを腰に巻くと、軽やかな布地が腰骨からお尻にかけてすべるように落ち、気分が少しだけ軽くなった。
ベッドに腰を下ろし、スマホを手に取る。
カクヨムのアプリを起動すると、昨夜の続きが表示された。
川北先輩の小説。
『彼女は放課後に消える』――。
放課後の美術室でだけ会える、主人公の「僕」と、転校生の女の子との青春小説だ。
主人公の「僕」は、彼女のことをもっと知りたいのに、家のことも、前の学校のことも、何ひとつ話してくれない。
ただ、窓辺に座って絵を描くやり取りだけで、二人は少しずつ距離を縮めていく……そんな静かな日々を丁寧に描いている。
けれど、彼女の筆先が描き出すのは、主人公が見たこともない景色や、なぜか胸をざわつかせる誰かの後ろ姿だったりする。
そのほんの少しの違和感が、私の胸にやけに引っかかる。
ページをめくる指先が止まらず、時間を忘れてしまう。
率直に、プロの小説と比べても、少なくとも素人の私にはほとんど
同じ学校に、しかも私よりたった一つ上の学年で、こんな文章を書ける人がいるなんて――それだけで、胸の奥がそっと波打った。
……しかし、これだけ面白いのに、なぜか全然読まれていない。
試しにこの作品のアクセス数を見てみると、どうにも正当な評価を受けていないように思えてしまう。
私はせめて応援の気持ちを込めて、各話末の♡や☆のマークをぽん、ぽん、と押した。
「Excellent!!」と文字が出る。
……正直、この仕組みがどういう意味なのかはよく分かっていないのだけれど。
さらに、レビューを書くページもあったので、この作品がいかに素晴らしく優れている作品か、感想として残そうと思った。
しかし、スマホの時計を見ると――そろそろ出かけなければいけない時間だった。
私はスマホを伏せて立ち上がると、バッグを肩に掛けて玄関へ向かった。
外に出ると、朝の陽射しが白く街を照らしている。
住宅街の道は、アスファルトの縁に並んだ植え込みから夏の緑の匂いが立ち上り、遠くでは子供の笑い声が響いていた。
蝉の声と、電線の上を渡る風が混ざり合い、どこかぼんやりとした午前の空気をつくっている。
今日、茜と遊ぶのは都内――渋谷や原宿近辺。
正直、人が多すぎて、
けれど、友達のためなら多少の我慢も必要だ。茜とは、そういう距離感を大事にしたい。
私はポケットからワイヤレスイヤホンを取り出し、耳に差し込んだ。
Spotifyを立ち上げ、お気に入りのプレイリストを流すと、電子音が心の外壁をつくってくれるような気がした。
⸻
電車に揺られること三十分。
窓の外を流れる景色は、住宅の屋根から高層ビル群へと変わっていく。
渋谷駅に着くと、電車のドアが開く音と同時に、押し寄せる人波に呑み込まれた。
天井の低いホームは、アナウンスとブレーキの軋む音、そして人々の靴音で満ちている。
改札を抜けると、すぐに巨大なデジタルサイネージの光と、広告の洪水が視界に飛び込んできた。
行き交う人々の肩が触れ合い、香水や汗、ファストフードの匂いが空気を混ぜる。
あぁ、やっぱりうるさい……。
私の耳には、音楽よりも強く、他人の心の声が流れ込んでくる。
(今日はプレゼン……ミスしたら終わりだ)
(あの服、やっぱ可愛かったな)
(昼、何食べよう)
無数の意識が色と温度を持って渦巻き、脳の奥をかき乱す。
息を整えながら、私はハチ公前広場へと足を運ぶ。
スクランブル交差点の向こうに広がる巨大なビジョンが、昼間でも眩しく輝いている。
画面の白が弾け、銀色が一瞬だけ跳ねた。刃みたいな間違った光が、一コマだけ脳裏をかすめる。
スマホを握りしめる手に、じっとりと汗が滲んだ。
雑踏が一度だけ薄くなった瞬間、茜の姿が見えた。
次の瞬間にはまた人の波に紛れ、白いオフショルの裾を揺らしながら、軽快な足取りでそれらを躱していく。
今日の茜のファッションは肩を大きく出した白のオフショルダーブラウスだ。ゆるく着崩され、裾を軽く結んでウエストを少し覗かせている。
切りっぱなしのライトブルーのショートデニムから伸びる脚はまっすぐで、足元はシンプルなストラップサンダル。
丁寧にセットされたウェーブのかかった髪が肩先で揺れ、唇にはひと刷けだけ赤のリップが差されていた。
……なんか、いつもより大人びて見える。
そう思った瞬間、茜が軽く手を振って近づいてきた。
「やっほー凛花。待った?」
「ううん、私も今着いたところ」
そのまま自然に手を取られ、指先が触れた瞬間、耳鳴りが一拍だけ止まった。
次の鼓動で、ざわめきが倍音を取り戻す。
「行こー」
人混みの中、茜の背中は妙に自信に満ちて見えた。
「渋谷、久しぶりだね。いつ以来だっけ? いっぱい楽しもうね!」
振り返った茜が笑う。
「うん」
そう返しながらも、私は胸の奥に小さなざらつきを覚えていた。
今日、この街の雑踏の奥に、何か落ち着かないものが潜んでいる気がしてならなかった。
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