第10話

 ビルの壁一面を覆う巨大スクリーンが、私の頬を派手な光で染める。スピーカーから溢れる音楽と、センター街のざわめきが絡み合い、フライヤーの油と甘いクレープの匂いが空気を満たしてむせそうだった。

 すれ違う人の心が断片的に流れ込んでくる。



(遅刻する、やばい)

(あの服ほしい)

(今日こそ告白する)



――雑音みたいにあちこちから飛び込んでくる思念が、街の喧騒と溶け合って私を包み込む。



 人の波は絶えず肩や腕を押し、立ち止まれば簡単に飲み込まれそうになる。

 そんな中で、茜と私は自然に手を繋いでいた。ほんのりとした温もりが、街のざらついた熱気の中で妙に安心させる。



 やがて視界に渋谷109が迫る。

 回転ドアを抜けると、外の騒音が少しだけ遠のき、香水と新しい布の匂いが入り混じった独特の空気に変わった。

 エスカレーターで上のフロアへ上がり、光沢のあるマネキンが並ぶ店先で茜が足を止める。



「これ、絶対似合うよ」



 ラックから取り出したのは、オフショルダーの清楚な白いワンピース。布地は柔らかく、裾にかけてひらりと揺れる。



「あーわたしが買って、凛花に着せたいくらいかも」



 冗談めかして笑いながら、茜はワンピースを私の体にあてがい、少し首を傾げる。



「ほら、肩のラインが綺麗に見えるし、スカートの丈も絶妙」



「そんなことないって」



 口では否定しながらも、思わず笑い返してしまう。

 ネオンの赤を受けた茜の横顔が、大人びて見えて胸の奥がくすぐったくなった。



 化粧品売り場では、香水のサンプルを手首につけ合い、顔を寄せて匂いを確かめる。



「これ、甘すぎないバニラって感じじゃない?」



 ほのかにクリームと花の香りが混じる、

 手の届く価格帯のフレグランス。

 そこに茜のシャンプーの匂いが溶けて、都会の雑踏の中で一瞬だけ別の世界に引き込まれたような気がした。





 今はただ、楽しいだけだった。

――少なくとも、この時までは。





 紙袋に入った小さな袋菓子とアクセサリーを手に、茜が「次はPARCOに行こっか」と笑う。

 特にPARCOに行く理由はなかったけれど、私も頷いた。



 センター街を抜けてPARCOへ向かう道は、まだ午前の光が強く、ビルの谷間を白っぽく照らしていた。

 飲食店の看板、派手な韓流アイドルのポスター、通りの真ん中で立ち話をしている若者たち。

 その中に、マッシュヘアの二人組の男がいて、通りかかる女性を片っ端から呼び止めていた。



「お姉さん、お姉さん、今からお茶しない?」



 軽く笑いながら、こっちにも手を振ってくる。

 妙に慣れた口調と、視線のねっとりした粘りが、朝の空気に不自然に混じっていた。



「キモ」



 茜が小さく吐き捨てた、その瞬間。



 ふ、と男の片方と視線がぶつかった。

 次の瞬間――男の思考が流れてきた。



(うおっ、スト値10!? 即は無理でも準即。まずは和みで、ギラつきは後。笑わせて距離詰め、連れ出し。相方はサポ……完璧だ)



 聞き慣れない単語に、私は一瞬足を止めた。

――スト値? 準即? 何かのスラングだろうか。



 その一瞬の隙に、男たちが下卑た笑いを浮かべる。

 しまった、と思ったと同時に、頭の中に卑猥で粘つく妄想が雪崩れ込んできた。



(マジ体つき完璧、グラドル級。こういうのは落とすまで時間かかるけど、取れたらデカい。絶対仕留めてやる)



 下卑げびた下心の熱が、まるで生ぬるい泥水みたいに脳内にじわっと広がっていく。

 嫌悪感が背筋をい上がり、指先までひやりと冷えた。



「えっ、お姉さんたち天使?」

「やば、天使が渋谷歩いてるとか奇跡じゃん」

「なぁ天使さん、暇でしょ? 俺らとお茶しない? 奢るからさ」



 わざとらしく笑いながら、男たちは左右から距離を詰めてくる。

 一人が「マジ芸能人?」と相棒にささやき、もう一人は「でも意外と天然そう」と勝手に頷く。

 冗談ともつかない軽口を延々と浴びせられ、空気がじっとりと粘りつく。



「ちっ」



 茜が大きく舌打ちをした。

 だが、二人は怯むどころか、ますます笑顔を濃くして押し寄せてくる。



「ねぇねぇ、せっかく可愛いんだからさ、もっと笑ってよ」

「そうそう、笑顔が一番似合うよ。俺らといたら、もっと笑えるから」



 そのうちの一人が、私の肩に手を伸ばそうとした――その瞬間。





「触るな!」





 茜の怒号が空気を裂いた。

 男が一瞬動きを止めた隙に、茜は私の腰に腕を回し、ぐっと引き寄せる。

 視界が一気に揺れ、気づけば彼女に導かれるようにして、私たちはPARCOの方向へと駆け出していた。





 PARCOのガラス扉をくぐった瞬間、外のざらついた空気が切り離された。

 館内の冷房が火照った頬を撫で、心臓の早鐘が少しずつ落ち着いていく。



「はぁ……マジでウザい」



 茜が小声で吐き捨て、次の瞬間には何事もなかったように笑った。



「ね、凛花。ちょっと休憩しよ。喉乾いたでしょ?」



 その笑顔に釣られて、私もようやく息を整える。

 エスカレーターを上りながら、茜の指先はまだ私の手を離していなかった。





 屋上に出た瞬間、熱を帯びた街のざわめきが一段低くなった。

 周囲を囲むパネル越しに、遠くまでビル群が重なり合って見える。



 PARCOの屋上にある隠れ家的なカフェに、私たちはやって来た。



 テーブルや椅子は木目調で統一され、パラソルが柔らかな影を落としている。観葉植物がさりげなく配置されていて、風が葉を揺らすたび、ほんのりと緑の匂いがした。



 私たちは奇跡的に空いていた席に腰を下ろし、カウンターで注文したカフェラテと、見た目にも可愛いベリーのタルトが運ばれてくる。

 紙コップの蓋を外すと、ふわっと甘いミルクとコーヒーの香りが鼻をくすぐった。



 茜はストローをくるくる回しながら、小さくため息をつく。



「本当、さっきのやつらウザかったね。ああいうの、マジで時間の無駄」



 そして私の目を見て、口角を上げる。



「もう、せっかくの凛花とのデートが台無しになるところだったじゃん」



「……ごめんね。私が一瞬、足を止めちゃったせいで」



 私が小さく頭を下げると、茜はすぐにストローを口から離し、首を横に振った。



「気にしないで。私が勝手にムカついただけだから」



 その言い方は軽かったけれど、さっき路地で響いた鋭い声を思い出すと、胸の奥にまだ少し熱が残っているのがわかる。



「でも……あんな声、茜から初めて聞いたかも」



 そう言うと、茜はカップのフタを見つめたまま、頬をほんのり赤くして肩をすくめた。



「えへへ……あんまり、そういうの見せたくなかったんだけどね……。

 あ、それよりさ。このあとどうする? 原宿に移動する? それともプリ撮る?」



 フォークですくったタルトを口に運びながら、私は「んー、茜が決めてよ」と答える。



「ふふ、じゃあ私が決めちゃっていいんだ?」



「うん。茜が選んだほうが、だいたい正解だし」



 私がそう返すと、茜は「そっかー、それは責任重大だ〜」と少し大げさに肩をすくめる。

 その仕草に、つい笑ってしまった。



「でもプリ撮るなら、今日の服ちゃんと写る場所がいいなー。ほら、私たち結構かわいくない?」



「ふふっ。それ、自分で言う?」



「言うよ〜? じゃないと、誰も褒めてくれないもん」



「さっきのナンパの人たちは褒めてくれてたじゃん」



「あれはキモいからノーカンだって〜」



 そんな他愛のないやり取りが、少しだけ心地いい雰囲気を作る。

 茜はカップの底をストローでつつきながら、ふと視線を上げた。



「ねぇ、そういえばさ――最近の凛花って、何にハマってるの?」



「え、ハマってるもの?」



「うん。なんかさ、ここ数日、色々レスポンスちょっと遅いじゃん。前よりも。だからなんかハマっているのかなって」



 鋭いな……と心の中で思う。

 確かに、ここ数日は空き時間のほとんどを読書に使っていた。

 私は少し申し訳なくなって、正直に口を開く。



「実は……最近ちょっと小説読むのにハマってて」



「小説?」



「うん。ミステリとか、青春小説とか」



「へぇー、すごいね。わたしなんか三行くらい読んだらすぐ眠くなっちゃう」



 茜はストローをくわえて、氷をカラカラと鳴らしながら笑う。



「あ、だからこの前も図書室に行ってたの?」



「うん。本を借りに……それで、受付の先輩に色々おすすめを教えてもらって」



「へぇ……先輩って?」



「二年生の川北蒼真かわきたそうまさん。知ってる?」



「んー……知らない。え、ていうか男?」



「そ、そうだけど」



「へぇ〜……凛花が男の人と?」



 茜は一瞬だけまばたきを忘れたみたいにこちらを見つめ、それからわざとらしくストローを口に運んだ。



「どんな人? イケメン?」



「う、うーん……まあ?」



「ふーん……で、その川北先輩のこと、凛花はどう思ってるの?」



「え? どうって……」



「好きとか、気になるとか、そういうの」



 茜の目がわずかに細くなる。探るような視線は、笑っているのに逃げ場がない。



「べ、別にそういうんじゃないよ。ただ、本をおすすめしてくれたり、話が面白かったりするだけで……」



「へぇ……それで仲良くなったんだ?」



「うん、まあ……本の趣味が合っただけ。ほんと、それだけ」



 なるべく軽い調子で返すけれど、自分でも少しだけ声が上ずったのがわかった。



 茜はそれ以上何も言わず、ストローの先をかすかに噛み、また笑った。









 会計を済ませ、席を立とうとしたとき、茜が「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるね」と言って席を外した。

 私は休憩スペースに腰掛け、手元のスマホを開く。



 SNSのタイムラインを眺めながらも、頭の中はさっきの会話の残響でいっぱいだった。




――川北先輩のこと、言わない方がよかったかな。

 でも、別にやましいことじゃない。隠す理由もないし……。



 そうやって言い訳とも自分への納得ともつかない思考を巡らせていた、そのとき。



 耳の奥に、ぬめりのある声がじわりと染み込んでくる。





【コロス……コロス……コロス……】





 その響きは言葉というより、腐った泥の底から泡と共に湧き上がってくる何かだった。

 低く、重く、湿った憎悪が、鋭い爪で脳の内側を引っかきまわす。



「な……に……これ……?」



 冷気が背骨を這い上がり、首筋の産毛が総立ちになる。

 呼吸が薄くなり、喉の奥に冷たい石を押し込まれたみたいに息が詰まる。

 呪詛じゅそは途切れない。





【コロス……コロス……絶対ゼッタイニ、コロス……】





 こめかみの奥で脈打つように響き、血流そのものを汚していくようだった。





――これは、人間の声なのか。





 疑問と同時に、全身の熱が一瞬で引いていく。

 指先から色が抜けるように感覚が遠のき、胸の奥の鼓動がどんどん弱くなる。

 視界の端がじわじわと黒く沈み、足に力が入らない。



 膝が折れ、床が迫ってきた――その瞬間、



「凛花!? ねぇ、大丈夫!?」




 視界の闇を裂くように茜の声が飛び込んできた。

 次いで肩を抱き寄せられ、その体温が押し寄せる。

 氷塊のように固まっていた心臓が、そこでやっとかすかに動き出した。



「ごめん……大丈夫」



 かすれた声でそう言いながら、私は無理やり笑顔を作った。



「ちょっと……貧血起こしたみたい」



 もちろん嘘だ。

 その間も――



【……コロス……コロス……】



 耳の奥でまだ、ぬめりのある声がくすぶっている。

 茜の声や、カフェのBGMにかき消されそうで、かき消えない。

 小さく、しかし執拗しつように、私の意識の端を叩き続ける。



「本当に大丈夫? 無理しないでね」



 茜が私の顔を覗き込む。



「大丈夫。……行こう」



 立ち上がり、茜と並んで歩き出す。

 数歩進むごとに、その声は少しずつ遠のいていき――やがて、渋谷の雑踏に完全に溶けた。

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