第8話
夜。ベッドの上、私は足を枕元に投げ出し、片膝を立てたままゴロゴロしていた。
枕元には開けっぱなしのスナック菓子と、カラフルなヘアゴムが散らばっている。
スマホは胸の横に置き、茜とくだらないスタンプを交互に送り合う。ウサギが爆笑して転げ回るスタンプ、よく分からない魚のやつ――画面が一瞬光って、また静かになる。
その片手で、私は今日、図書室で借りたアガサ・クリスティの小説『そして、誰もいなくなった』を開いた。
孤島の館に招かれた十人の男女。だが主人は姿を見せず、やがて流れる謎めいた詩と告発の声。過去の罪を突きつけられ、登場人物たちは次々に殺されていく。
疑いは人から人へ移り、夜ごとに仲間は減り、逃げ場のない島でただ
……もし私がこの中にいたら。
でも、それを知られたら――次に狙われるのは、間違いなく私だ。
心が読めるというだけで、仲間は敵に変わる。それは、現実の学校でも少しだけ知っている。
「罪を犯した人間は、生き延びてはいけない」
登場人物の一人が吐き捨てたその台詞が、妙に胸に刺さった。
正義のようでいて、そこに潜む冷たい殺意は――誰かの心の奥を覗いてしまったときの、あのひやりとした感触に、よく似ていた。
ページをめくる手が止まらない。活字が視界に吸い込まれ、脳の奥で映像に変換されていく。
登場人物の息遣い、波の音、海鳥の鳴き声――そして、屋敷の奥でひそやかに流れるあの
数を減らしていく小さな人形たちの姿まで、まるで自分がその孤島に立っているかのように鮮やかだった。
もし私が、この島の中にいたら?
あの人たちの心の中身を、全部、聞かされながら生き延びなきゃいけないの?
想像だけで、喉の奥がひりついた。
善人の仮面の下に渦巻く悪意や罪悪感。
それらが刃物よりも鋭く、私の神経を一枚一枚削っていく。
文字と映像が
――気がつけば、物語は終わっていた。
胸の奥が、深い海に沈められたみたいに重い。私はゆっくりと本を閉じ、ベッドの上に置いた。
スマホを手に取り、画面を点ける。
時刻は「0:14」。
いつの間にか、日付が変わっている。
そのすぐ下で、LINEのアイコンが赤く腫れ上がったように膨れ上がっていた。
茜から、何十件ものメッセージ。
「……やばっ」
心臓が跳ね、指がもつれる。
慌てて短く謝罪の文を打ち込み、送信ボタンを叩く。
すぐに既読がついた。
その直後――画面に、無表情の丸いキャラクターがこちらを見て笑うスタンプが、ぽつんと現れた。
……え?
意味はわからない。ただ、その歪みのない笑顔が、なぜか背筋を冷たく
⸻
翌朝。
カーテン越しの朝日がまだ白く、ぼんやりとした頭のまま家を出た。
通勤ラッシュを避けた車内はまばらで、揺れに身を任せていると、まぶたがゆっくりと閉じかけた――その瞬間。
(あのJK……スカートの中、見えそう……)
高い耳鳴りと共に、脳の奥を濁った声が
心臓が跳ね、全身の筋肉が硬直する。
振り返ることもできず、ただ視線だけを足元に落とした。
スマホを握りしめ、LINEの画面を開く。
そこに茜からの最後のメッセージ――無表情で笑うあのスタンプが並んでいた。
これ、何の意味だったんだろう。
怒らせちゃったかな……?
胸の奥がざわめいたまま、電車が停まり、ドアが開く。
私はためらいがちにホームへ降り立った。
⸻
学校に着くと、教室にはまだ数人の生徒しかいない。
昨夜はあの小説のせいで夜更かししたので、本来なら眠いはずだ。
けれど――茜のことが気になって、あまり深く眠れなかった。
枕元で何度もスマホを見ては、何も変わらない画面をただ眺めていた。
気を紛らわせようと、机の中から日焼け止めを取り出し、校則に引っかからない程度に薄く塗る。リップも控えめに。
それでも落ち着かず、周りに気づかれないようスマホを机の下に隠し、TikTokを流し見する。笑い声やBGMが耳に入っても、頭にはほとんど残らない。
今日図書室へ返す予定の小説もパラパラとめくってみるが、文字は目の上を滑っていくだけだった。
徐々にクラスメイトが増えていく。鞄を置く音、椅子を引く音、友達同士の挨拶……そうした日常のざわめきの中にも、茜の声は混じらない。
時計の針が進む音ばかりが気になって、不安がじわじわと胸の奥を締めつける。
たまらずスマホを開き、短く「おはよ」とだけLINEを送った。
……が、既読はつかない。
送信した文字が、やけに冷たく感じられる。
――予鈴が鳴る。
その音と同時に、教室のドアが勢いよく開き、茜が息を切らしながら駆け込んできた。遅刻寸前だった。
「ふぅ……ギリギリセーフ? 間に合ったよね?」
小声でそう呟きながら、茜は乱れた前髪を指先で直し、肩から鞄を下ろす。
そのまま椅子に腰掛けると、ぱっと笑顔を咲かせて、私に手を振った。
「凛花、おはよー。今朝寝坊しちゃってさ〜」
「……おはよう」
声を返した瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。
ああ、良かった。
いつも通りだ――変な心配なんて、やっぱりいらなかったんだ。
その後は、退屈ないつもの日常が続いた。
日本史の授業では、先生が
前の席の男子は、プリントの
そんな
休み時間になると、一気に教室の空気がざわついた。
机を囲んでスマホゲームの画面を見せ合う子、廊下で友達とふざけ合う子――そのざわめきの中で、私は茜に「昨日の夜、LINE気づかなくてごめんね」と声をかけた。
茜はノートをパタンと閉じて、あっけらかんと笑う。
「全然大丈夫だよー。凛花、寝落ちでもしてたのかと思った」
軽い調子の声に、私もつい笑ってしまう。
良かった。怒ってなくて。
そうして、何事もなく放課後を迎えた。
人の気配が少なくなった廊下を抜け、私は一人、図書室へと足を向けた。
扉を押し開けると、薄い紙の匂いと静かな空気が迎えてくれる。
受付には、昨日と同じ人が座っていた。
名前は確か――
背の高い体を少し前傾させ、ペン先で貸出カードに何かを書き込んでいる。
彼は私に気づくと、ふっと
「やぁ。
「こんにちは。あの、これ……返しに来ました」
私は鞄から、昨日借りたクリスティの小説を差し出す。
すると、文庫本を受け取った彼の眉が、わずかに上がった。
「えっ、もう読了したの!?」
「はい。とても面白くて……昨夜、一気に読んでしまいました」
私がそう言うと、彼――川北先輩の目が少しだけ細くなり、口元に楽しげな弧が浮かんだ。
「へぇ……読むの早いんだね。それで、どこが一番印象に残った?」
「やっぱり……最後の真相が明らかになる場面です。あの緊迫感、ページをめくる手が止まらなくて」
私は思わず身振りを交えて語る。
「途中まで『この人かな?』って思っていたのに、全然違っていて……しかも、あの手紙のくだりで一気に
「わかるなぁ」
先輩は頷きながら、指先で文庫本の背表紙を軽く叩いた。
「個人的には、あの食堂のシーンが好きだな。何気ない会話なのに、じわじわと疑心暗鬼が広がっていく感じ。あそこで、みんなの表情が少しずつ変わっていくのがたまらないんだ」
「……そうそう! あの場面で『あれ、何かおかしい』って気づくんですよね!」
私もすぐに
まるで昨日の出来事のように情景が
「何か、他にもおすすめありますか?」
そう尋ねると、先輩は少し考えてから、ぱっと顔を上げた。
「同じアガサ・クリスティなら『オリエント急行の殺人』はやっぱり外せないな。
あと、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』も。あの緊張感は一度味わってほしい」
彼はスマホを取り出し、何かを調べながら続ける。
「それから、ちょっと古いけどエドガー・アラン・ポーもいいよ。推理とホラーの境目みたいな短編が多くて、雰囲気が独特なんだ」
私は頷きながら、スマホのメモに彼が挙げた作品名を書き込んでいく。
「……ホラー寄りなら、スティーヴン・キングも外せないかな。『シャイニング』とか『IT』とか。
あと、日本だと
「へぇ……」
知らない世界が少しずつ開けていくようで、胸が高鳴る。
「ありがとうございます。それにしても、高二でこんなに本を読んでいるなんて、すごいですね」
「いやいや、そんなことないよ」
先輩は小さく笑って、耳のあたりをかきながら視線を逸らした。
「……実は僕、作家を目指しているんだ。だから人よりたくさん本を読んでいるだけで」
そう言ったあと、照れくさそうに口元を指で隠す。
「え、作家ですか? すごいですね。今、何か執筆されているんですか?」
「うん。今はカクヨムっていうサイトで、書いた小説をアップしてる」
カクヨム――確か、小説を投稿するプラットフォームだったっけ。だいぶ前に、私も登録だけはしたような気がする。
「カクヨムにアクセスしたら、私も先輩の作品が読めるんですか?」
読書家の彼がどんな物語を書くのか、妙に気になった。
「い、いや、まだ全然!
「いいじゃないですか。良かったら私、先輩の作品を読んで感想言いますよ」
その一言に、先輩の肩がびくりと揺れた。
「え、ほ、本当にいいの?」
私は頷きながら、彼の心の声をそっと拾った。
(読まれるのは、もちろん嬉しい、けど……まるで心の奥を覗かれるみたいで恥ずかしいな……。も、もしつまらなかったら、凛花さんの貴重な時間を無駄にしちゃうかもしれないし――)
それでも、机の端でスマホを包み込む手は、子猫が宝物を抱きしめるみたいに、小さく揺れていた。
その可愛らしさに、私はつい口元を緩めてしまった。
「……ご迷惑なら、いいんですけど」
思わずそう口にした瞬間、先輩が顔を上げた。
そして、何かを決めたように机のメモ用紙を引き寄せ、ペンを走らせる。
数秒後、それを私の方に差し出してきた。
そこには、カクヨムのアドレスと、ペンネーム――
タイトルは『彼女は放課後に消える』と書いてあった。
「……よ、よろしくお願いします。あの……つまらないと思ったら、読むのやめてもらっていいからね」
言いながら、耳までほんのり赤く染まっている。
私はそれを両手で受け取り、自然と微笑んでいた。
「ありがとうございます」
互いに軽く会釈をして、私は図書室をあとにした。
廊下に出た瞬間、さっきまでの静寂が嘘みたいに、放課後のざわめきが耳を満たした。
「――凛花」
背後から名前を呼ばれ、反射的に振り返る。そこに立っていたのは、茜だった。
不意に胸がどきりとする。
「あ、あれ、茜? 今日はバイトじゃなかった?」
「今日は休みー。それよりもー、どこに居たの〜? 一緒に帰ろうと思って学校中探し回ったよ〜。LINEも既読つかないし〜」
「あ、ごめん……図書室に居たから、気づかなかった」
「ふーん……」
茜の瞳が一瞬、細くなる。
「な、何か
そう言うと、茜はぱっと笑顔を見せ、私の手を取った。
ひんやりした指先が、妙に離れず、指の間に絡まる。
「じゃあ決まり! ね、こっち」
ぐっと引かれる感覚に、心臓がまた小さく跳ねた。
廊下のざわめきが、急に遠くなっていった――。
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