第7話 一度は死んでみるもんだ

20xx年某月 オホーツク海


 嵐が船を飲み込もうとしていた。幕末の西洋式帆船ハンセン を復元して作られた船は、オホーツク海の高波に翻弄され10メートルの高低差をジェットコースターのように上り下りしていた。


「くそー」


 船室の隅でしゃがみながら外の様子をうかがっていた男が愚痴る。

 流石に避難しておくべきだった。

 借金してまで作った船だ。嵐が来ました。危ないので全員避難しました、船が壊れました、では済ませたくなかった。残って最後まで足搔かなければ、そう思って一人船に残ったのだった。


 だいたい出航時期が希望とは違っていたのだ。安全な秋に出航したかったが、テレビの予定に合わせなくてはならなかったし、引き下げ先のテーマパークも、さっさと投資を回収したがっていた銀行も、早く出航できるならばその方がいいという立場だった。


 そうして1カ月早い処女航海が決まってしまった。打ち合わせた海洋専門家は現代船を想定した専門家で頼りにならなかった。

 そういえばあいつを紹介したのは銀行だったな。手を組んでいたに違いない、きっとそうだ。魚顔の眼鏡野郎め!

 自分を奮い立たせるために適当に怒りを呼び起こした。


 避難先のヴィクトリー号のサーチライトが船内に差し込んだ。まだこちらを見失ってはいないらしい。


 ヴィクトリー号というのは一緒に航海している併走船で、テレビクルーが外から映像を取るための船だ。

 この船とは違い安全性もバッチリな近代船だ。こんな嵐でも優雅なクルーズを楽しめているに違いない。

 今頃はこちらの沈没する瞬間を取ろうと必死にカメラを回しているはずだ。


 嵐への備えは避難した乗組員たちが行ってくれていた。帆をしまい、アンカーを落とし、ハッチを閉め、設備と備品のチェックを行い、救急キット、工具キット、救難信号、携帯食料、タオル、ロープ、携帯無線機、分厚い何冊ものマニュアルも嵐で飛ばない様に壁に巻き付けてくれている。


 タオルで体をふきながら船首の方に視線を移した。先ほどまで舵につかまり船首を波に立てようと戦っていたが、コントロール不可能になって船室に避難してきたところだ。


 こうなってはジェットコースターになった船室で体力を温存することしかできない。どこまで休めるかはわからないが、とにかく体力を温存しなくては。

 そう思ってまだ床が濡れていない、体を支えやすい部屋の隅で体をロープで固定して耐えることにした。

 嵐はまだ何時間も続くはずだ。


 体を拭いた後に着替えることは出来なかった。

 何しろロープが無ければ部屋の隅から隅へと本当に体が飛んでいくのだ。

 代わりに震える手でカイロを開けて、酔い止めと持病の胃薬、それとゼリー状の栄養食を一緒に飲み込んだ。


 栄養食を口にしている歯がガタガタ音を鳴らす。恐怖じゃない寒さのせいだと自分に言い聞かせた。実際に北の海の海水は凍えるようだった。


 そうだ、恐怖じゃない。食べる元気があるじゃないか。

 食べ終わったゴミを力強く投げ捨てる。


 船首が大きく上を向いた。

 数秒して船が波から落ちる。ロープを掴んで落下に備えた。そうしないと固定ロープが体に食い込んで痛いのだ。


「とんだスイートルームだ」

 何百回目かわからない、体が浮いて落ちる感覚を味わう。すきっ腹に入れたせいか腹が鳴った。こんな状況で腹が鳴るのがおかしかった。


 最大級の嵐が来ることが分かった時、他の船員はヴィクトリー号に避難させることができた。自分が残るといった時の皆の宇宙人を見るような顔は面白かったな。

 はは、自然と笑みが浮かんだ。俺は大丈夫だ。

 ふと気づく、なかなか落ちる感覚が終わらない。

 妙だな。


 そう思った瞬間、経験したことがない衝撃が船を襲った。扉を破壊して海水が流れ込む。

 やばいと思った時には猛烈な勢いの海水が体を半分飲み込んでいた。海水で視界がぼやける。


 冷たい。


 船体が折れる凄まじい音が聞こえる。

 女性の体重くらいあろう工具キットが自分めがけて空中をスローで飛んでくるのが見えた。


 ちゃんと固定しておけよ…


 ゴンと鈍い音がすると意識が海に沈んでいった。

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