【加害と救済】私たちは自作自演の正義を見抜かなければならない

晋子(しんこ)@思想家・哲学者

加害者は加害の後に救済者のフリをして現れることがある

人は他人の弱点を見つけたとき、そこに優しさを与える者と、攻撃する者に分かれる。だが悲しいことに、結構多くの人は後者を選ぶ。誰かの傷口を見つけた瞬間、それを癒すどころか、さらに押し広げて、自分が優位に立てる足がかりにしようとする。そしてその傷を治す「薬」さえも自分の掌に握りしめて、「元に戻してほしいなら、私の言うことを聞け」と命令するのだ。


ここには、重大なねじれがある。なぜなら、そもそも傷を負わせたのはその者自身であり、原因を作った加害者が、まるで救済者のような顔をして支配に持ち込んでいるからだ。これは支配のための非常に狡猾な構造である。自分で人を突き落としておいて、「手を差し伸べてやった」と言い張る。その手を握るには、代償として従順を差し出さなければならない。これは暴力であり、洗脳である。


加えて、多くの場合、このような人間は「感謝」をも強要する。傷をつけたことについては棚に上げ、「助けてやったんだから、ありがとうの一言ぐらい言え」と平然と口にする。だが、冷静に考えればその「助け」など、そもそも最初から必要のなかったものである。もし相手が傷を与えなければ、助けなど求める必要はなかったのだから。加害者が被害者に「恩を着せる」というのは、加害行為を責任として引き受けるのではなく、むしろそれを利用してさらに支配を進めるという、倫理的にも破綻した手口だ。


この構造は親子関係、職場、恋人関係、そして国家権力にまで広く見られる。たとえば、親が子どもに理不尽なプレッシャーを与えて傷つけ、子どもが心を病んだ後になってから「でもあのとき私はお前の面倒を見たじゃない」と言い出す。会社でも上司が部下に無理な仕事を押し付け、潰しかけた後に「でも困っていた君をフォローしたのは私だ」と語る。恋人同士でも、相手の精神を壊すような束縛をしたのちに「私は君を支えている」と自画自賛する。そして国家は、社会的不安を作り出しながら、そこに対する「救済策」として監視や管理を押し付け、「感謝しろ」と言う。


このようにして、原因を作った者が、その解決策を自分の手柄として扱い、相手に感謝と服従を求める。これは一種のマッチポンプである。火をつけておいて、水をかけて「俺が助けた」と言い張る。その構図の中で、最も苦しむのは、傷を負った側だ。ただでさえダメージを受けているにもかかわらず、「救ってやった」と言われることで、自分の苦しみを語ることさえできなくなる。


さらに問題なのは、多くの人がこの構造に気づかないまま、「ありがとう」と言ってしまうことだ。自分の弱さが原因だと誤解し、「助けてもらった」と錯覚し、「感謝しなければならない」と自分を納得させてしまう。こうして、被害者は自ら進んで従属し、支配はより強固になる。


本来であれば、原因を作った者は責任を取り、静かに償うべきだ。「助けた」と言うのではなく、「傷つけてしまった」と反省し、二度と同じことをしないと誓うべきだ。だが、そうした誠実さを持たない者は、反省の代わりに支配を選ぶ。そしてその支配の武器として「恩」を捏造し、「感謝」を強要し、「命令」に従わせようとする。


このような歪んだ関係性を断ち切るには、まず「誰が原因を作ったのか」を冷静に見極める力が必要だ。そして、加害者が救済者を演じてきたときに、毅然と言い返さなければならない。「あなたが原因であり、これはあなたの責任であり、感謝など必要ない」と。


私たちは、恩と責任を混同してはならない。加害を正当化するための偽りの恩に、頭を下げてはならない。助けてくれたのか、傷つけたのか。その違いを見抜き、自分の尊厳を守ること。それこそが、本当の意味で自由に生きるための第一歩である。

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