小さな祝いの日


 春のある朝、涼葉はリビングのカレンダーを見ながら、「来週は健康診断の日だよ」と直樹に声をかけた。

「忘れないように、前の日はお酒も控えめにしてね」

と言われた彼は「分かった、分かった」と笑いながらも、内心は少し複雑だった。娘に頼られるのは嬉しい。しかし、いつの間にか、自分が娘に頼り切っている現実に、年を重ねた寂しさを感じていた。それでも、涼葉の笑顔が、そんな複雑な思いを溶かしてくれるのだった。


 理江は最近、少し足元が心配になってきた。涼葉は「転ばないように、廊下に滑り止めマットを敷こう」と提案し、一緒に家具の配置も見直した。 「ありがとう、これで安心して歩けるわ」と理江はホッとした表情で言った。


 毎日の食事も、涼葉が工夫を凝らした。

「今日は野菜たっぷりのスープにしよう」

「パパ、塩分控えめで味付けしてあるからね」

「ママには、噛みやすいように少し柔らかく煮てあるよ」

食卓を囲む時間が、家族にとって一番の楽しみになっていた。


 ある週末、三人は近所の公園まで散歩に出かけた。

「少し歩くと気持ちがいいね」

「季節の花を見るのが楽しみだわ」

涼葉は自然と両親の歩調に合わせ、無理のないペースで歩いた。


 夜、涼葉はスマートフォンで健康管理アプリを使い、

「今日の歩数はこれくらいだったよ」

「血圧も記録しておこうか」

と、両親と一緒に健康状態をチェックする。

「自分一人じゃ続かないけど、こうして一緒だと頑張れるな」

父は照れくさそうに言う。


 ある日、涼葉は、「もしもの時の連絡先」や「お薬リスト」を分かりやすくまとめておき、「何かあったら、これを見れば大丈夫」と両親に説明する。

「こんなに頼もしい娘がいてくれて、私たちは幸せだね」

理江がしみじみと言うと、

「私も、二人が元気でいてくれることが一番の幸せだよ」

と涼葉がニコッとして言った。まだ孫がいなくても、家族三人で支え合い、思いやりの手を差し伸べる日々が、両親の健康と心の安らぎを守っていた。


 今日は直樹の七十七歳の誕生日。涼葉は数日前から、理江と一緒にささやかな計画を立てていた。涼葉は朝からはキッチンで父の好きな卵焼きを焼いて、「お誕生日おめでとう!」とテーブルに並べるつもりだ。理江も、手作りの赤飯と、昔から父が好きだった煮物を用意していた。「もう七十七か、早いもんだなあ」と父は照れくさそうに笑う。


 そして昼には、三人で近くの公園まで散歩に出かけた。

「七十七年、いろんなことがあったね」

「これからも元気でいてね」

春の花が咲く道を歩きながら、家族の思い出話に花が咲く。


 家に戻ると、涼葉は用意していたアルバムを開いた。

「ほら、これ小さい頃の私。パパが肩車してくれた写真」

「懐かしいなあ。あの頃は元気だったよ」

理江も「家族三人で写っている写真が一番好きですね」と笑顔で返した。


 夕食後、涼葉が手作りのケーキにろうそくを立てる。

「せーの!」

三人でハッピーバースデーの歌を歌い、父が願いを込めてろうそくを吹き消す。

「これからも、みんなで元気に過ごそうな」

直樹の言葉に、母も娘も静かにうなずいた。


 特別な贈り物や派手な演出はないけれど、三人で迎えた小さな記念日は、何よりもあたたかく、家族の絆をそっと確かめ合う大切な一日になった。


 春の柔らかな陽射しが差し込む朝。涼葉は真新しい袴に袖を通し、鏡の前で静かに深呼吸をした。

「今日で、学生生活も終わりか……」

彼女の胸の奥に、期待と少しの不安が入り混じっていた。


 直樹と理江は、涼葉の晴れ姿を見て目を細めた。

「よくここまで頑張ったな」

直樹は感慨深げに言い、理江はそっと涼葉の髪を整える。

「卒業おめでとう。あなたの努力は、ずっと見てきたから分かってるよ」

 

 会場までの道すがら、三人は満開の桜並木を歩いた。

「この道、入学式の時も一緒に歩いたね」

「そうだな。あの頃はまだ心配ばかりしてたけど、今は頼もしいよ」

涼葉は、両親の言葉に小さくうなずいて、

「二人がいたから、ここまで来られたんだよ」と心から感謝した。


 涼葉は卒業式の会場で、友人たちと笑い合い、写真を撮り合った。二人は少し離れた場所からその様子を見つめて、「もうすっかり大人になったな」と静かに語り合った。


 昼過ぎに式が終わり、家族三人で帰路についた。

「これからは、自分の力で歩いていくんだね」

直樹はそう言うと、涼葉は

「うん。でも、困ったときはまた頼らせてね」

と、少し照れくさそうに笑う。


 家に戻ると、理江が用意していた小さな花束と、直樹が書いた手紙がテーブルに置かれていた。

「おめでとう。そして、ありがとう」

涼葉は涙をこらえきれず、家族で静かに抱き合った。


 卒業式を終えた夜。涼葉は袴を脱いで、いつもの服に着替え、両親と並んで食卓についた。母が用意したごちそうを前に、「今日は本当におめでとう」と改めて乾杯した。直樹は静かに言った。

「四年間、よく頑張ったな。お前が努力している姿を、ずっと見てきたよ」

涼葉は少し照れくさそうに笑いながら、「パパとママが支えてくれたから、最後までやりきれたんだよ」と答えた。


 しばらくして、理江がそっと尋ねる。

「これからは、どんなことに挑戦したい?」

涼葉は少し考えてから、

「今はパッケージシステム会社で頑張るけど、いつかは海外で日本語を教える仕事に挑戦したいな。お父さんやお母さんがリモートワークで頑張っているのを見て、私も年齢に関係なく、いろんなことに挑戦できる大人になりたいって思った」

 と、まっすぐな目で話す。


 直樹はうれしそうにうなずき、

理江も、

「困ったときや寂しいときは、いつでも帰っておいで。私たちの家は、いつまでもあなたの居場所だから」

と優しく微笑んだ。


 涼葉は、両親の言葉に胸が熱くなり、「ありがとう。これからも、たくさん相談すると思うけど、よろしくね」と、しっかりとうなずいた。


 この日の食卓には、これまでの思い出と、これからの希望が静かに満ちていた。家族三人で過ごすこの夜が、新しい一歩への力強いエールとなっていくのだった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る