人生の後半に咲いた花


 八十歳が目前に迫ってきた直樹と理江は、再雇用の年金だけでは生活費と涼葉の学費の両方をまかなえない現実を前に、「まだまだ自分たちにできることがあるはず」と考えた。


 直樹は、エンジニアとして鳴らした技術力と英語力を活かし、リモートワークで海外の企業のプログラミング対応の仕事を請け負っている。時差に戸惑いながらも、 「娘の夢のためなら、もうひと踏ん張りだ」と自分を励ます日々を過ごしていた。


 理江は、オンラインで日本語を教える仕事を始めた。海外の生徒と画面越しに会話し、「新しいことを覚えるのは大変だけど、若い人たちから元気をもらえるんです」と笑顔を見せた。


 家族の食卓では、理江と涼葉の間で「今日、初めてブラジルの生徒と話したのよ」「英語のジョークが通じて嬉しかった」 そんな話題が飛び交っていた。


 経済的な余裕は決して十分というわけではない。でも、彼らは「家族のために、いま自分にできること」を一生懸命続けている。その姿は、涼葉にとって何よりも力強く、「年を重ねても挑戦できる」「家族は支え合うものだ」と教えてくれるものだった。


 老いてなお輝いている二人。それは、「与えられた環境の中で、諦めずに挑戦し続ける生き方」そのものだった。


 直樹は毎朝、まだ薄暗いうちからパソコンを立ち上げ、老眼鏡をかけて、英語のメールを一文ずつゆっくり読み解いていく。海外の会社とのやりとりは時差があるため、夜遅くまで海外からの連絡を待たざるをえないことも多い。

「また英語で長文の指示が来てるな……」

彼は、老眼鏡をかけ直して眠い目をこすりながら、

「Good evening. Thank you for your reply.」

などと、辞書を片手にメールを打っていった。


 初日のオンライン会議では、長年オンプレミス、自社設置のインフラエンジニアをやっていてリモートには不慣れだった故に「声が聞こえません」「画面が映りません」と言われて、焦って何度も再起動した。それでも、少しずつ操作に慣れ、 「Good morning!」と自分から挨拶できるようになった。そんなときのことをたまに思い出す。


 理江もまた、オンライン日本語レッスンで苦労していた。

「生徒の顔が見えないと、表情がわからなくて不安になるわ」

「チャットで漢字を打ち間違えてしまって、恥ずかしかった」

それでも、「あなたの授業が楽しい」とメッセージが届くと、「やっててよかった」と涙ぐむ。時には、突然のシステム障害や通信トラブルで、「今日はもうダメだ」と投げ出したくなることもあった。でも、涼葉の「ありがとう。パパとママのおかげで学校に行ける」という言葉が、二人の背中をそっと押してくれた。


 大学の授業で最新技術を学ぶたび、涼葉は胸が締め付けられるような気持ちになった。そして帰宅後の子供部屋の机の前に座ってつぶやいた。

「パパは、きっと昔の知識を必死にアップデートしているんだろう。ママは、慣れないオンラインの環境で、知らない国の人たちと向き合っている。自分は温かい部屋で好きな勉強をしているのに、両親は画面の向こうの慣れない世界で奮闘している。私はこのままでいいのかな。私にできることは何だろう」


 夜、パソコンの電源を落とすと、

「今日も何とか乗り切ったな」

「まだまだ負けていられないね」

と、二人で小さく笑い合った。二人のリモートワークの苦労は絶えない。それでも、家族の未来のため、年齢を超えて挑戦し続ける両親の姿は、涼葉にとって何よりも誇らしいものだった。


 ある夜、涼葉はたまたま通りかかったリビングから聞こえる直樹の声にハッとした。「今、英語でなんて言ったの?」と聞くと、「簡単なジョークだよ」と父は照れくさそうに笑った。その顔は、以前の不慣れなリモート会議で焦っていた頃とは違い、どこか自信に満ちていた。その瞬間、涼葉は気づいた。両親はただ苦労しているだけでなく、新しい世界を楽しんでいるのかもしれない。そして、自分もまた、その新しい世界に入るための手伝いができるはずだと。


 ある日の朝、直樹はパソコンの前で小さくうなずいていた。

「今日のミーティング、ちゃんと受け答えできるかな……」

母は台所でお弁当を作りながら、

「この前、生徒さんに新しい日本語の表現を教えてみようかしら」とつぶやく。

 

 涼葉は大学の課題に追われながらも、

「パパ、授業で最新の認証技術を習ってきたの。何かあったら教えてあげる」

「ママ、Zoomの設定はこのボタンだよ」

と、両親のそばで優しくサポートする。二人も、「ありがとう、助かるよ」「あなたがいてくれて心強い」と笑顔を返した。


 夕方、家族三人で食卓を囲むと、

「今日は英語のジョークが通じて、同僚が笑ってくれたんだ」

「生徒さんが『先生のおかげで日本語が好きになりました』って言ってくれたんです」

「私もゼミで発表がうまくいったよ」

それぞれの一日を報告し合い、励まし合った。


 週末の夕食後、涼葉は直樹のパソコンの前に座り、「パパ、この前授業で習った最新の認証技術、セキュリティ強化に役立つと思うよ」と話した。慣れない専門用語に彼は首をひねったが、涼葉は紙に図を書きながら、ひとつずつ丁寧に説明した。


 涼葉が去った後、直樹は老眼鏡の奥で、目の前の画面に表示された量子コンピューティング用の特殊なプログラミング言語に目を凝らした。彼の専門は、昔ながらの堅牢なインフラ構築だ。かつて学んだPerlやRubyは、もう歴史の遺物になりかけていた。今求められるのは、AIが自動生成したコードを理解し、そのロジックを修正するスキルだった。夜が更ける中、彼は辞書を片手に『この構文は? そうか、AIの思考パターンを理解する必要があるのか』とぼそっとつぶやいた。


 理江がオンライン授業の準備をしていると、涼葉は横から「このボタンを押すと、生徒さんの発言が字幕で表示されるよ」と教えてあげた。彼女は驚いたように画面を覗き込み、「あら、こんな便利な機能があったのね。ありがとう、涼葉」と嬉しそうに言った。


 理江が受け持った生徒は、全員がAI搭載の自動通訳機を耳にしていた。授業中に漢字の意味を尋ねられても、AIが瞬時に答えを教えてしまう。理江は最初、『私の存在意義って何だろう』と不安に感じた。しかし、ある時、ブラジルの生徒が『先生の授業は、AIにはない、日本語の心の部分が学べる』と言ってくれた。以来、理江は単語の意味を教えるだけでなく、言葉の裏にある文化や感情、そしてユーモアを伝えることを心がけるようになった。しかし、稀にAI通訳機が微妙なニュアンスを誤訳し、生徒と理江の間で誤解が生まれてしまうこともあり、その度に彼女は冷や汗をかいたこともあった。


 時々、直樹は涼葉の好きな煮物を作って待っていたり、 理江が「今日は疲れたでしょう」と温かいお茶を差し出したり。涼葉もまた、両親のリモートワークがうまくいくように、パソコンのアップデートや資料作りを手伝った。


 「家族って、こうしてお互いに助け合えるからいいね」

涼葉がふとつぶやくと、

「そうだな。年を取っても、新しいことに挑戦できるのは家族のおかげだよ」

直樹は優しくうなずいた。

「みんなで元気でいることが、一番の幸せね」

理江も笑顔で言った。

 

不安や疲れがある日も、小さな「ありがとう」と「おつかれさま」と言い合うことが、家族の心をそっと温めてくれている。


 こうして三人は、それぞれの場所で頑張りながら、支え合い、励まし合い、毎日を大切に生きていた。


 季節は巡り、家族三人はそれぞれの毎日を忙しく過ごしていた。直樹と理江はリモートワークを続けながらも、時折ふと立ち止まり、「この先、どこまで頑張れるだろう」と不安になることもあった。


 ある晩、涼葉は心配そうに言った。

「パパ、今日のミーティングはどうだった? 英語で言いたいこと、ちゃんと伝えられた?」

それを聞いた直樹は

「ああ、大丈夫だったよ。涼葉が教えてくれたZoomの機能も使ってみたんだ。助かったよ、ありがとう。」

と返した。理江は

「今日の生徒さん、日本語がすごく上達してたわ。もしかしたら、私が日本語を教える仕事に興味を持つきっかけになったのかも、なんて言ってたんです」

そして涼葉は笑顔で言った。

「ママが楽しそうに話しているのが、きっと伝わったんだね。私ね、パパとママを見て、年齢に関係なく挑戦できる大人になりたいって思ったんだ」

その言葉に、両親は互いに顔を見合わせ、温かい笑顔を交わした。

「夢を持てるって、素晴らしいことだよ」

直樹は目を細めて娘に言う。

「私たちも、まだまだ新しいことに挑戦したいと思ってる」

理江も優しく微笑んだ。

「これからも、みんなで助け合っていこうね」

涼葉の言葉に、家族の心がひとつになる。

 

年齢や環境に縛られずに、それぞれの夢や挑戦を応援し合える。そんな家族の絆が、未来への希望そのものだった。窓の外には、春の夜風がそっと吹いている。

「明日もきっと、いい日になる」

小さな願いとともに、家族はまた新しい一歩を踏み出していくのだった。


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