新しいリズム

 ある冬の朝、まだ薄暗いキッチンで、直樹はゆっくりとおにぎりを握っていた。彼の手はは少し震えていたが、心を込めて海苔を巻いていた。

「できたぞ。今日は梅と鮭、どっちがいい?」

涼葉は制服のままリビングに現れ、「ありがとう。梅がいい」と小さく笑った。


 二人は朝食を食べながら、 涼葉と話した。

「今日も模試?」

「うん。ちょっと緊張してる」

「大丈夫。お前はよく頑張ってる。終わったら好きなケーキでも買って帰ろうか」

「うん……ありがとう」

涼葉は少しだけ肩の力を抜いた。


 そして試験当日がやってきた。

直樹は玄関で涼葉のコートの襟を直し、

「寒いから気をつけて。忘れ物はないか?」

「うん、大丈夫」

「がんばれ。結果はどうでもいい。お前が元気で帰ってくるのが一番だよ」

涼葉は「いってきます」と小さく頭を下げ、家を出た。


 直樹は窓辺に座り、「昔は自分もこんなふうに見送られていたな」と、遠い過去のことを思い出す。手元には彼女が小さい頃に描いた絵が挟まったお守り袋。

「これで少しは力になれるか」

と、そっと手のひらで包み込む。


 夕方、涼葉が帰宅した。

「おかえり。どうだった?」

「難しかったけど、最後まで解けたよ」

「それなら十分だ。よく頑張ったな」

そして直樹はは静かに微笑みながら、

「今日はケーキを買ってきたぞ」とテーブルに並べた。


 夜、涼葉が勉強机に向かう後ろ姿を見ながら、

「無理はするなよ。眠くなったら休むんだぞ」

「うん。お父さんも早く寝てね」

「わかった。……おやすみ」

「おやすみなさい」


 受験の重圧の中、多くを語らずとも、そっと寄り添う父の存在が、娘にとって何よりの支えになっていた。


二月の冷たい風の中、合格発表の日がやってきた。涼葉はスマートフォンの画面を見つめ、手が震えていた。その隣で直樹は静かに見守っていた。

「……番号、あった!」

彼女の声が震える。

「本当に? よかったな……!」

直樹の目にも涙が浮かんだ。

「おめでとう。よく頑張ったな」

彼女は思わず父に抱きつき、しばらく二人で言葉もなく喜びをかみしめた。


 その日の夕食は、家族でささやかな「お祝い会」をすることにした。直樹は「今日は好きなものを食べよう」と言い、涼葉の好きなちらし寿司とケーキを用意した。

「これからがまた新しいスタートだな」

「うん。頑張るよ」

笑い合いながら、家族の輪が一段とあたたかくなる。


 入学の準備が始まると、忙しさと期待が入り混じる日々が続いた。直樹は入学金の支払いなどの慣れない手続きに戸惑いながらも、

「わからないことがあったら、何でも言ってくれ」

と涼葉に声をかけた。


 春が近づくにつれ、涼葉は新しい友だちとSNSでやりとりを始めたり、「大学でやりたいこと」をノートに書き出したりしていた。直樹はそんな彼女の姿を見て、「もう子どもじゃないんだな」と、少し寂しくも誇らしい気持ちになった。

 

 入学式の朝。娘は真新しいスーツに身を包み、鏡の前で深呼吸をした。

「大丈夫、きっと楽しいことがたくさん待ってるよ」

直樹は玄関でそう声をかけ、

「ありがとう。行ってきます」と娘は笑顔を見せた。


 家族三人の、それぞれの春が始まった。 涼葉の合格までの努力と、これからの希望を胸に、新しい扉が静かに開いていくのだった。


 涼葉が大学に通い始めて、家の中の空気が少し変わった。毎朝、彼女は以前より早く起き、慣れない満員電車に揺られて通学する。

「今日は新しいゼミの説明会があるんだ」

「友だちと一緒にお昼を食べる約束したの」

帰宅後の話題も、すっかり大学生活のことが中心になった。


 直樹は、涼葉のいない退勤後の静かな夕方にふと手持ち無沙汰を感じることもあった。「もう勉強を見てやることもないんだな」と思わずつぶやくときもあった。

それでも、彼女が帰ってきて「ただいま」と言う声を聞くと、「おかえり。今日はどうだった?」と自然に笑顔になった。


 涼葉の成長を喜びながらも、「少しずつ手が離れていくんだな」という寂しさも胸に残る。だけど、彼女が自分の世界を広げていく姿は、直樹にとって何よりの誇りだった。


 理江もまた、涼葉の忙しさに合わせて家事のリズムを変えたり、「もうお弁当はいらなくなったんですね」と苦笑いしながら、自分の時間を大切に使うようになった。

地域の友人と出かけたり、たまに街歩きサークルに復帰したり、 「私も新しいことに挑戦してみようかな」と前向きな気持ちが芽生えた。


 週末、家族三人が揃う食卓は、

「大学の先生が面白くてね」

「友だちとカフェ巡りしてきたよ」

「今度、学園祭に家族で来てよ」

と、にぎやかな会話であふれ。


 家族のかたちは時間の流れによって変わっていった。それぞれの新しい日常が始まり、離れても、また集まれば笑い合える。そんな温かな絆が、これまで以上に強くなっていくのだった。


 涼葉が大学に通い始めてから、直樹はふとした瞬間に彼女のことを思い出すことが増えた。朝、玄関を出ていく彼女の背中が、いつの間にか大人びて見える。

「小さい頃は、手を引いて歩いていたのにな」

彼はそう心の中でつぶやいた。


 涼葉が帰宅すると、直樹は「今日はどうだった?」と自然に声が出た。彼女の「新しい友だちができたよ」「サークルで先輩に教わったんだ」といった話を聞くと、彼はほっとすると同時に、「もう自分の知らない世界に羽ばたいているんだな」と少しだけ寂しさを覚えた。


 夜、直樹は涼葉の部屋の明かりがついているのを見て、「ちゃんとご飯は食べただろうか」「悩みごとはないだろうか」と気になる。だけど、口には出さず、

「困ったことがあったら、いつでも相談してほしい」

そんな思いを胸に、静かに見守った。


 理江もまた、娘の成長を嬉しく思いながら、

「もう私がしてあげられることは少ないのかしら」と、少し手持ち無沙汰な気持ちになることもある。それでも、

「今日は友だちとランチしたの」

「ゼミの課題が大変でさ」

涼葉が何気なく話してくれる日常が、母にとっては何よりの喜びだった。


 週末に、家族三人で食卓を囲むとき、涼葉が笑顔で語る姿に理江は、

「この子は自分の力で歩き始めている。でも、どんなに離れても、家族は家族だ」

と、実感した。


 涼葉は大学生活にも慣れてきた頃、娘は新しく始めたイラストサークル活動で大きな壁にぶつかった。サークルの発表会に向けて、リーダーを任された彼女は、 「みんなをまとめるのって、こんなに難しいんだ」と初めてのプレッシャーに戸惑う。メンバーの意見がぶつかり合い、思うようにデッサンの練習が進まない日々。家に帰っても、ため息が増え、食事の量も減っていった。


 直樹はそんな涼葉の様子に気づきながらも、「無理に聞き出すのは違うな」と、そっと見守ることにした。理江も、「何かあったら、いつでも話してね」とだけ声をかけ、彼女の気持ちが落ち着くのを待った。


 そんなある日曜日の午後、涼葉はぽつりとつぶやいた。

「私、リーダー向いてないのかも……。どうしてもうまくいかなくて」

直樹は新聞を置き、ゆっくりと彼女のほうを向く。

「うまくいかないことがあっても、それは挑戦している証拠だよ。逃げたくなることもある。でも、全部自分で背負い込まなくていい」

それを聞いた彼女は黙ってうなずいた。


 理江は台所からココアを運び、

「お母さんも昔、仕事で失敗して泣いたことがあるよ。でも、そのとき支えてくれる人がいたから、また頑張れたんだよ」

涼葉はココアを両手で包み込み、「ありがとう」と小さくつぶやいた。

その夜、彼女はLINEでサークルの仲間に「助けてほしい」と素直に伝えた。そして、少しずつ、みんなの距離が縮まり、発表会も無事に終えることができた。


 挫折を知ったからこそ、また一歩、涼葉は成長していった。両親はその姿を、誇らしく、そして静かに見守り続けていた。


 サークルの発表会を終えた後も、涼葉は失敗や悩みを繰り返しながら、少しずつ自信を取り戻していった。しかし、ある日、彼女は大学の課題でとある大きなミスをしてしまい、「もう無理かもしれない」と涙ぐんで帰宅した。もう喜寿が目の前に迫ってきた直樹と理江は、そんな彼女の様子をそっと見守っていた。


 直樹は、いつものように台所でおにぎりを握る。

「失敗は誰でもするもんだ。大事なのは、諦めないことだよ」

不器用な手つきで、でも心を込めて作ったおにぎりを差し出す。涼葉は、「ありがとう」と受け取り、一口かじると、「パパも昔、うまくいかないことあった?」と尋ねた。

「そりゃあ、たくさんあったさ。でも、家族がいたから頑張れた」

直樹は少し照れくさそうに笑った。


 理江は、涼葉の隣に座り、

「あなたが頑張っている姿を見ると、私たちも元気をもらえるのよ」

「年を取っても、新しいことに挑戦したいって思えるのは、あなたのおかげ」

と、穏やかに語りかけた。


 涼葉は、両親の言葉と温もりに心がほぐれていくのを感じた。

「私も、もう一度やってみる。今度は仲間にも頼ってみる」

そう決意し、翌日からまた大学へ向かった。


 両親は、涼葉の背中に静かにエールを送った。

「私たちも、まだまだ負けていられないな」

「そうね。元気でいることが、涼葉への一番の応援かもしれないわね」


 七十代後半の両親の、変わらぬ愛情とささやかな努力。その存在が、涼葉にとって最大の支えとなり、新しい挑戦への勇気を与えてくれていた。

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