春の門出
桜が咲く季節が来た。涼葉はこの春、小学校に入学することになった。入学式の朝、彼女は少し大きめのランドセルを背負い、緊張した面持ちで玄関に立っていた。
「大丈夫だよ、きっと楽しいことがたくさん待ってるよ」
理江が優しく声をかけると、涼葉は「うん」と小さくうなずいた。直樹は、彼女のランドセルの肩ひもを直しながら、「パパもママも、最初はみんなドキドキしたんだよ」と微笑んだ。
校門の前は、色とりどりのランドセルと晴れ着の家族でにぎわっていた。写真を撮る家族の輪の中で、二人も涼葉の手を握り、記念写真を撮った。
「大きくなったね」
「本当に、あっという間だったね」
入学後、涼葉の毎日は新しい出会いと発見の連続だった。
「今日ね、はじめて自分で教室に行けたよ」
「お友だちと一緒に給食を食べたの」
帰宅後の報告を聞くたびに、二人は彼女の成長を実感する。
その夜、二人は涼葉の寝顔を見つめて静かに語り合う。
「この子も、もう小学生なんだね」
「私たちも、また新しい家族の形になっていくんだね」
「この子が高校生になるころ、私は七十歳なんですね……」
「でも僕はたとえ自分が何歳でも、この子の人生のスタートを支えられるだけで、十分に幸せだと思っている」
「まだまだ話すことはありそうだけど、明日もあるので寝ましょうね」
二人はベッドに潜った。
家族の生活も少しずつ変わった。 朝は三人で慌ただしく支度をし、夜は宿題を見守る時間が増えた。リビングのカレンダーには、授業参観や運動会、町内会の行事など新しい予定が書き込まれていく。
ある休日、家族三人で桜並木を歩きながら、
「この子が大きくなったら、どんな夢を持つんだろうね」
「きっと、私たちには想像もできないような未来が待ってるんでしょうね」
と、二人は涼葉の背中を見つめながら話した。新しい季節、新しい世界。涼葉
の成長とともに、家族の絆もまた新たな形へと変わっていった。
中学生になった涼葉は、少しずつ親と距離を取るようになった。「おはよう」と声をかけても、小さくうなずくだけの日もある。学校や友だちの話はあまりしなくなり、休日も自室で過ごすことが増えたような気がする。
ある日、夕食のときに理江が「今日はどうだった?」と尋ねると、「別に……」とそっけない返事だった。直樹も「部活、頑張ってるみたいだね」と声をかけるが、
「うん」とだけ答えて箸を動かしつづけた。以前は家族三人で出かけるのが楽しみだった娘も、「友だちと約束があるから」と、一緒に出かけることは減っていった。
理江は時々、不安な気持ちになる。
「私、何か間違えたのかな……」
直樹は「大丈夫だよ。みんなそういう時期があるって」と励ますが、二人とも、どう接したらいいのか迷いながら日々を過ごしていた。
ある晩、涼葉が部屋で泣いているのに気づいた。理江はドアの前でしばらく迷ったあと、「どうしたの?」と優しく声をかける。彼女はしばらく黙っていたが、「ママ、友だちとケンカしちゃった」とぽつりとつぶやいた。
理江は無理に問い詰めず、「そっか。つらかったね」とだけ言って、そっと隣に座る。涼葉はしばらくしてから、「ママも、昔そういうことあった?」と聞いた。
「うん。大人になっても、時々あるよ」
「ふーん」
それだけの会話だったが、彼女の表情は少しだけ柔らかくなった。
翌朝、涼葉はいつもより少しだけ明るい声で「いってきます」と言った。二人は、見送る背中に静かにエールを送った。
思春期の彼女と向き合うのは、簡単なことではなかった。でも、「そばにいる」「見守っている」という気持ちが、少しずつ、彼女の心にも伝わっていった。すれ違いの日々の中でも、家族の絆は静かに、確かに育っていた。
春のやわらかな光が、リビングのカーテン越しに差し込む。今日から高校生になった涼葉は新しい制服に袖を通し、鏡の前で髪を整えている。 「似合ってるよ」と理江が微笑むと、彼女は少し照れくさそうに「ありがとう」と返した。
直樹は、これまでより少し早い時間に家を出る。再雇用で担当することになった新しいプロジェクトは、慣れないことも多い。
「まだまだ自分も成長できるかな」
駅へ向かう道すがら、ふとそんな思いがよぎる。
理江は、出勤前のひとときの間に、朝食やお弁当の準備を丁寧に続けている。
「家族がそれぞれ頑張っているから、私も負けていられない」
そう自分に言い聞かせる。
涼葉は新しい学校で、知らないクラスメイトに囲まれながらも、「おはよう」と声をかけてくれた子に「おはよう」と返した。昼休みには、窓から見える桜並木を眺めながら、「家族みんなで頑張ろうって決めたんだ」と心の中でつぶやいた。
その日の夕方、家族三人は久しぶりに同じ時間に帰宅した。
「おかえり」
「ただいま」
それぞれの一日を報告し合いながら、食卓を囲んだ。新しい生活は、不安も戸惑いもあるけれど、「今日も一日、みんなで乗り越えたね」そんな小さな達成感が、家族の中に静かに満ちていく。
夜、涼葉が宿題を広げる隣で、直樹と理江は仕事のノートを開いた。
「また明日も、それぞれの場所で頑張ろう」
言葉にしなくても、三人の間にはあたたかな絆が流れていた。
新生活が始まって数ヶ月。
家族三人は、それぞれの場所で新しい日々を歩み始めていた。
涼葉は、新しい学校で最初は緊張していたものの、そこでも少しずつ友だちができ、部活動にも挑戦し始めた。
「今日は部活で先輩に褒められたよ」
「数学のテスト、前より点数が上がった!」
小さな成功が自信になり、以前より明るい表情が増えていく。そんな涼葉は、毎日学校の授業を終えると部活動のアトリエへ直行し、夜遅くまで絵を描いた。休日には美術館やスケッチ会に参加し、家でも黙々とスケッチブックを埋めていく。
「うまく描けなくて悔しい日もあるけど、描くのがやっぱり好き」
そう言って、壁に貼られた自分の絵を見つめる目は真剣だった。
その後、涼葉のイラストが地域の美術展で入選した。二人は展示会場で自分の絵の前に立つ彼女の姿を、誇らしげに見守る。
「おめでとう!」
「ありがとう。これからも、もっと上手くなりたい」
涼葉は新しい夢に向かって、さらに意欲を燃やしていた。
そして、涼葉は高校三年生になった。進路希望調査の用紙を前に、机に向かう涼葉の表情はいつになく真剣だった。直樹は、会社で定年まであと一年という通知を受け取ったばかりだった。
「再雇用制度はあるけれど、給料も下がるし、今までのようには働けない」
理江も直樹と同様、育休を挟んで働き続けているが、教育費の積立で家計は決して楽とは言えなかった。
夕食の後、リビングで家族三人が静かに話し合う時間が増えた。
「大学に行きたい気持ちはある。でも、奨学金も借りなきゃいけないし……」
涼葉は俯きながらつぶやく。
「大丈夫。お父さんもお母さんも、できる限り応援するよ」
直樹はそう言いながらも、心の中では不安が渦巻いていた。定年後の収入と、彼女の学費という定期的な大きな出費。二人には何を優先すべきか、簡単には決められなかった。
数日後、涼葉はぽつりと話し始めた。
「もし、お父さんが定年で大変なら、私、働きながら通える学校にしようかと思ってる」
「そんなことは気にしなくていい。自分の夢を大事にしなさい」
直樹はそう言いながらも、彼女の優しさに胸が締めつけられる思いだった。
春の桜が散るころ、家族三人で静かに歩いた帰り道。
「人生の分かれ道って、いつも難しいね」
涼葉がぽつりと言う。
「でも、どの道を選んでも、家族で支え合っていこう」
理江がそっと涼葉の肩を抱いた。
定年、進学、そして家計。簡単に答えの出ない悩みの中で、家族はお互いの思いを確かめ合いながら、新しい一歩を探していた。
涼葉は、深呼吸して口を開いた。
「私、やっぱり大学に挑戦したい。奨学金も使うし、アルバイトも頑張る。パパとママに全部は頼れないけど、それでも夢をあきらめたくない」
その目は、迷いながらもまっすぐだった。
直樹は、涼葉の言葉を静かに受け止めた。
「よし、わかった。お父さんも、再雇用で働けるだけ働くよ。
給料は下がるけど、まだまだ家族のために頑張りたい」
「無理はしないでね」
理江がそっと声をかける。
「きみもだよ」
「それはまぁね……」
理江は苦笑いした。そして続けた。
「私はなんとか家のことも仕事も両立できるように工夫するから、みんなで支え合っていこう」
「ありがとう、二人とも」
涼葉は涙ぐみながら頭を下げた。
それぞれが、自分の不安や弱さを隠さずに言葉にした夜。
「どんなに苦しくても、家族みんなで前に進もう」
そんな小さな決意が、春の夜風のように静かに、けれど確かに三人の心に灯った。
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