新しい家族の朝
秋の終わり、アパートの窓から見える紅葉はすっかり色づいていた。五十代半ばの夫婦、
「なあ、もう一度だけ、挑戦してみないか」
直樹がぽつりと言った。
理江は箸を置き、静かにうなずいた。
「でもね、お金のこと、現実的に考えないと」
二人はこれまで、慎ましく暮らしてきた。直樹はSESエンジニア、理江は中小企業の事務職。家賃負担は結婚で下がったものの、独身時代はそれぞれ収入の六割近くを占めていた影響もあって、貯金も多くはない。結婚して子どもが欲しいと思い続けてきたが、お金の壁の前に挫折を繰り返して何度も諦めかけていた。
「実は……」
直樹は、机の引き出しから一通の封筒を取り出した。「この生命保険、二十年かけてきたやつ、解約すれば八十万円は戻るって」
理江は驚いた。
「えっ、ちょっと待って。でもそれ、老後のために……」
「老後ももちろん大事だよ。でも、もし今しかできないことがあるなら、そっちを選びたい。後悔したくないんだ」
理江はしばらく黙っていた。
「私もね、自治体の助成金のこと調べたの。年齢制限ギリギリだけど、所得制限はクリアしてるし、上限三十万円まで補助が出るって」
「合わせて百十万か。治療費は平均百五十万くらいって聞いたけど、なんとかなるかな」
「うん。結婚式と婚約指輪はあきらめます」
現実的な不安と、わずかな希望が交錯した。
数日後、直樹は生命保険会社に電話をかけた。
「はい、解約でお願いします」
電話を切ったあと、どこか肩の荷が下りたような気がした。
理江は市役所に足を運び、助成金の申請書類をもらってきた。窓口の担当者は親切だったが、「年齢的に、申請できる回数に限りがあります」と念を押された。
「でも、やるだけやってみます」
彼女は書類を握りしめて帰宅した。
治療が始まると、身体的にも精神的にもきつかった。 ホルモン注射の副作用で理江は体調を崩し、直樹も残業の後に病院へ駆けつける日々が続いた。 それでも、「今しかできないこと」を選んだ後悔はなかった。
夜、二人でカレンダーを見ながら次の通院日を確認する。
「あと、いくら残ってるかな……」
「大丈夫、ちゃんと計算してるから。足りなかったら、また考えよう」
やがて助成金が振り込まれ、保険の解約返戻金も入金された。通帳の数字を見て、理江は小さく息を吐いた。
「これで、もう一度だけ、夢を見てもいいよね」
直樹はうなずき、二人は手を握り合った。
治療の先に何が待っているかは分からない。 でも、二人で選んだこの春の決断は、きっとこれからの人生にとって大切な記憶になるはずと信じていた。
そして治療が始まってから数か月。理江の体調は日によって大きく揺れた。薬の副作用で食欲がなくなり、時には涙が止まらなくなる夜もあった。
「あまり無理しないでいいから」
直樹は何度もそう言ったが、理江は首を振った。
「やるって決めたんだもの。あなたと一緒に、最後までやりたい」
通院のたびに、待合室には自分たちよりずっと若い夫婦が多かったように見えた。受付で年齢を書くとき、周囲の視線が気になることもあった。それでも、二人は励まし合いながら一歩ずつ進んだ。
数か月後、奇跡のような知らせが届く。
「妊娠しています」
医師の言葉に、理江はしばらく声が出なかった。直樹も、診察室の椅子でしばらく呆然としていた。
「本当に……?」
「うん、本当に……」
二人は、静かに手を握り合った。
妊娠が分かってからも、不安は尽きなかった。年齢のこと、体調のこと、経済的なこととか。出産に向けて、さらに節約を重ねた。二人は毎月家計簿を見ながら、あと何を削れるだろうかと考えた。
「ベビーベッドはリサイクルショップで探そう」
「ベビー服も、お下がりをもらえるか聞いてみるね」
周囲の友人や親戚は、最初は驚いたが、やがて「すごいね」「応援してるよ」と言ってくれる人もいた。 一方で、「そんな年で大丈夫?」と心配や、時には好奇の目で見られることもあった。
やがて、無事に女の子が生まれた。小さな産声を聞いたとき、理江は涙が止まらなかった。直樹も、初めてわが子を抱いたとき、震える手でその小さな命を包み込んだ。名前は「
新しい生活は、想像以上に大変だった。夜泣きをあやしたり、ミルク、おむつ替えと言った日常の作業は体力的にもきつかったけど、それ以上に「この子のために生きる」という新しい目的が、二人の毎日に光を灯していった。眠れぬ夜が続き、二人とも疲れ切っているはずなのに、朝、赤ん坊の小さな手が動くたび、自然と顔がほころんだ。
ある朝、直樹はキッチンでミルクを作りながらふと思う。
「結婚式はできなかったけど、こうして三人で迎える朝が一番の幸せかもしれないな」
理江も、涼葉を抱きながら微笑む。
「この子が生まれてくれて、本当に良かったね」
ふたりで顔を見合わせ、静かにうなずき合う。
マンションの廊下で会うご近所さんたちも、「かわいいねえ」「泣き声が聞こえると元気が出るよ」と声をかけてくれる。年配の女性は「昔を思い出すわ」と、自家製のおかゆや手編みの帽子を差し入れてくれた。
休日には、家族三人で近くの公園を散歩する。ベビーカーを押しながら、
「この子が歩けるようになったら、また違う景色が見えるんでしょうね」
「きっと、もっと賑やかになりますね」
ふたりの会話に、娘の小さな声が混ざった。
夜、娘がすやすやと眠ったあと、私達はリビングで並んで座り、
「結婚式はできなかったけど、こうして家族になれたことが一番の宝物だね」
「はい。写真も指輪もないけど、毎日が記念日みたいです」
ふたりはそっと手を重ねた。
毎日は慌ただしく、時には不安や疲れもある。それでも、「おはよう」と「おやすみ」の間にある小さな幸せを、家族三人で静かに積み重ねていくのだった。
涼葉が生まれて一年が過ぎた。直樹と理江の日々は、喜びだけでなく戸惑いと不安の連続だった。夜泣きが続き、何度も眠れぬ夜を過ごした。
「どうして泣き止まないんだろう……」
「ミルクも替えたし、抱っこもしたのに」
時には二人とも疲れ果てて鉛のように身体が重くなってのびてしまうこともあった。
ある夜、涼葉の泣き声に理江が涙ぐんだ。
「私、母親に向いてないのかも……」
直樹はそっと肩に手を置き、
「大丈夫。僕も父親になんてなれてないよ」と言った。
二人で顔を見合わせて、ふっと笑い合う。
「でも、こうやって一緒に悩めるのは、ありがたいね」
「うん、きっと、少しずつ親になっていくんだと思う」
初めての発熱、初めての予防接種、初めての離乳食。二人は何をするにも手探りで、インターネットや育児書を読み漁る毎日だった。
「正解なんてないんだろうな」
「この子の笑顔が見られたら、それでいいんじゃないかな」
そう言いながら、少しずつ自分たちのやり方を見つけていった。
ある日、涼葉が初めて自分でスプーンを持った。うまくいかずにご飯をこぼし、服もテーブルもぐちゃぐちゃ。 それでも、二人は「上手、上手!」と拍手した。
「大人になってから、こんなに誰かの成長を喜べるなんて思わなかった」
「親になるって、こういうことなんだね」
買い物や通院、家事と育児の両立に疲れ果てる日もある。
そんなとき、ご近所の年配女性が「少しだけ預かってあげるわよ」と声をかけてくれた。
「みんなに助けてもらいながら、親になっていくんだな」
理江は、涼葉を迎えに行った帰り道、そうつぶやいた。
夜、涼葉が眠ったあとの静かな時間。
「今日も一日、お疲れさま」
「明日も、きっと大丈夫」
ふたりでそう言い合いながら、親としての毎日を少しずつ積み重ねていった。
子育ては大変だけど、「この子がいるからこそ、気づけたこと」「ふたりで乗り越えられること」が、二人にとって何よりの宝物になっていった。
涼葉が三歳になった春。最初は小さなベビーベッドで眠っていた子が、今は自分の足でしっかりと歩き、公園では友だちと走り回るようになった。
朝、涼葉が「おはよう」と元気に挨拶する声で一日が始まる。自分で服を選び、「これがいい!」と主張する姿に、二人は思わず顔を見合わせて笑った。
「少し前まで、何を着せても文句ひとつ言わなかったのにね」
「成長した証拠だね」
二人の表情はまんざらでもないようだった。
涼葉が保育園に通い始めると、新しい世界をどんどん吸収していった。「今日はお友だちとおままごとしたの」「先生にお花あげたよ」 小さなリュックを背負い、毎日たくさんの話を持ち帰ってくる。
送り迎えの道すがら、
「パパ、あそこに大きな犬がいるよ」
「ママ、今日はお弁当にイチゴ入れてくれてありがとう」
娘の目線で見る世界は、ふたりにとっても新鮮だった。
家の中も少しずつ変わった。壁には涼葉が描いたクレヨンの絵が増え、リビングの本棚には絵本やおもちゃが並んだ。夕食のテーブルでは、娘の好き嫌いに一喜一憂しながらも、家族三人で食卓を囲む時間が当たり前になっていった。
休日には三人で公園や図書館、町のイベントに出かける。
「去年はまだベビーカーだったのに、今はもう手をつないで歩いてる」
「子どもが成長するたびに、家族の形も変わっていくんですね」
理江がしみじみと言うと、直樹もうなずいた。
夜、涼葉が眠ったあとの静かな時間。
「この子が生まれてから、私たちも少しずつ変わってきた気がします」
「そうだね。前よりも、毎日が楽しみになったよ」
「年齢を言い訳にして諦めずに決断してよかったです」
二人は、娘の寝顔を見ながら、これからも家族三人で歩んでいこうと静かに誓い合った。小さな手をしっかりと握って歩く日々。娘の成長とともに、家族の絆も、静かに、でも確かに深まっていった。
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