新しい地図

 夏の終わり、川沿いの遊歩道。夕暮れの空に、秋の気配が混じり始めている。理江と直樹は、並んでゆっくり歩いていた。


「最近、歩きながらいろんなことを考えるんです」

理江がぽつりと言う。

「昔は、誰かと一緒に暮らすなんて想像できませんでした。でも、直樹さんと歩いていると、不思議と“この先も一緒にいたい”って思うんです」

直樹は、胸の奥が熱くなるのを感じていた。

「僕もです」

「一人でいるのが当たり前だったけど、今は、誰かと“明日の予定”を話せるのが嬉しい」

「はい。僕もです」


 二人は川辺のベンチに座り、しばらく無言で夕焼けを眺めた。やがて直樹は、意を決して口を開いた。

「理江さん。 もし、よかったら、これからも、ずっと一緒に歩いていきませんか?」


 理江は驚いたように直樹を見つめ、そしてゆっくりと微笑んだ。

「はい。私も、そう思っていました」

「お互い、家族もいないし、若いころのような勢いもないけれど、それでも、これからの人生を一緒に歩いていきたいです」

直樹の声は少し震えていたが、言葉には確かな思いがこもっていた。


「私もきっと、これからもいろんな景色を一緒に見つけていけたら。それが一番の幸せです」


 夕暮れの川沿い、二人の影が寄り添うように伸びていた。その日から、二人は「結婚」という新しい地図を、ゆっくりと描き始めることになった。


 二人の結婚が決まったあと、どちらの部屋で暮らすかを相談した。 直樹の部屋は駅から少し遠いが静かな住宅街の1DK、理江の部屋は駅近のワンルームで日当たりが良いがやや手狭だった。


 ある休日、二人でそれぞれの部屋を見て回る。

「こっちは収納が多いですね」

「でも、駅から歩くとちょっと遠いかな……」

「私の部屋は狭いけど、スーパーが近いんです」

「でも、ベッドとテーブルを置いたらもういっぱいですね」


何度も話し合った末、二人で新たに部屋を借りることにした。

「せっかくなら、ふたりで新しい場所を選びましょう」

「そうですね。二人の“最初の地図”ですから」


 不動産屋を何軒も回り、家賃と間取り、周辺環境を比較する。

「家賃は無理せず、今までと同じくらいにしましょう」

「二人で八万円くらいまでなら大丈夫かな」

「1LDKなら、寝室とリビングを分けられますね」

「バス停が近いのも便利です」


 最終的に選んだのは、駅から徒歩十二分の築二十年の1LDKマンション。リビングは十畳、寝室は六畳、南向きの小さなバルコニー付き。家賃は七万八千円。周囲は静かな住宅地で、スーパーや公園も近い。


 引っ越し当日。

「これだけで本当に全部ですか?」

「はい。服と本と、あとは少しの食器だけ」

お互い、長年一人暮らしだったので荷物は少なめだった。家具は二人で相談し、古いものは処分し、ソファやテーブルは新しく揃えた。


「このカーテン、母が使ってたものなんです」

「じゃあ、リビングに使いましょう」

「このマグカップ、昔から使ってるんです」

「二人分あれば十分ですね」


 段ボールを積み上げながら、ふと直樹が言う。

「なんだか、新しい人生が始まるって感じがします」

「はい。私も、同じ気持ちです」


 窓を開けると、南向きのバルコニーからやわらかな光が差し込んだ。

「これから、ここが“ふたりの家”ですね」

「はい。きっと、いい毎日になります」

こうして、二人の新しい暮らしが、静かに始まった。


 引っ越しの荷ほどきが終わるころには、すっかり日が暮れていた。リビングの床にはまだ段ボールがいくつか積まれている。

「今日はもう、簡単なものでいいですよね」

「はい。冷蔵庫に入れておいたサンドイッチと、インスタントのお味噌汁でも十分です」

二人で小さなダイニングテーブルに向かい合って座る。


「乾杯、しましょうか」

「はい。これから、よろしくお願いします」

紙コップに注いだ麦茶を合わせる。

窓の外は静かで、遠くで犬の鳴き声が聞こえる。


「なんだか、旅先の宿みたいですね」

「まだ実感がわかないです」

「でも、こうして二人でいると、どこでも“家”になるんですね」

「はい。きっと、明日から少しずつ慣れていきますよ」


食事のあと、二人でバルコニーに出る。夜風が気持ちよくて、並んで空を見上げる。

「この町の星は意外とよく見えますね」

「新しい生活、きっと楽しくなります」

そう言いながら、二人は静かに並んで立っていた。


 翌朝、二人は引っ越しのあいさつに回ることにした。

「こんにちは、昨日引っ越してきた長沼直樹と申します」

「こちら、ささやかですが……」

小さなタオルの詰め合わせを手に、上下階と両隣の部屋を訪ねる。


 上の階のご夫婦は、笑顔で「ようこそ」と言ってくれた。

「うちも二人暮らしなんですよ。何か困ったことがあればいつでもどうぞ」

隣の部屋には、小学生の娘さんがいる家族。

「娘が時々騒がしいかもしれませんが、よろしくお願いします」

「こちらこそ、お騒がせすることもあるかもしれません」

もう一つの隣は、年配の女性が一人暮らし。

「最近は若い人が多くてね。あなたたちのようなご夫婦が来てくれて嬉しいわ」

と言って、手作りの漬物を分けてくれた。


 その日の夕方、二人で近所のスーパーに買い物に行くと、 「おや、新しい方ね」と、レジの女性や八百屋のおじさんが声をかけてくれる。

「これからよろしくお願いします」

「また来てくださいね」

新しい町の人々は、穏やかで、どこか懐かしい雰囲気だった。二人は、少しずつこの町の空気に馴染んでいくのを感じていた。


 最初の夜が静かに更けていく。

「明日は、どこを歩きましょうか」

「この町の地図、また一緒に作っていきましょう」

二人はそっと手をつなぎ、眠りについた。


 秋の終わりに、二人が新しい生活を始めたこの小さな賃貸マンションで新しい生活を始めた一部屋。家具はそれぞれの家から持ち寄ったものばかり。食器もバラバラで、タオルの色も統一感がない。だけど、どれも二人にとっては大切な思い出の品だった。


 朝、直樹が目を覚ますと、キッチンからコーヒーの香りが漂ってくる。

「おはようございます」

「おはよう。今日は少し冷えますね」

理江が、湯気の立つカップを差し出す。


「パン、焼きますね」

「ありがとう。昨日の散歩で老舗のベーカリーに立ち寄って買ったやつですね」

パンを半分こしながら、今日の天気や、テレビのニュースについて話す。 以前は一人で黙って食べていた朝食が、今は少し賑やかだ。

 

 休日は、二人で近所を歩くのが習慣になった。

「今日はどこに行きましょうか」

「新しいカフェができたみたいですよ」

地図を片手に、路地を歩き、知らない店に入ってみる。 古本屋でそれぞれ好きな本を選んだり、ベンチでおしゃべりしたり。「こういう時間が一番幸せだな」と、直樹はふと思う。


 時には、過去の思い出話をすることもある。

「母が好きだったお皿、割らずに残っててよかった」

「このマグカップ、昔から使ってるんです」

お互いの“昔”が、少しずつ“今”の中に溶けていく。


 夜、夕食を終えたあと、二人で明日の予定を確認する。

「明日は天気がよければ、またあの神社まで歩きませんか」

「いいですね。あの道、銀杏がきれいでしたよね」


 眠る前、ベッドサイドのランプの下で、二人並んで本を読む。時々、気になった文章を読み上げては、静かに笑い合う。


「こうして誰かと一緒に暮らすのは、思っていたよりずっと、あたたかいものなんですね」

理江がぽつりと言う。

「はい。僕も、そう思います」

直樹は、そっと彼女の手を握った。特別なことは何もない。けれど、日々の小さな出来事が、二人の暮らしを静かに満たしていった。


 引っ越してしばらく経ったある休日の朝。マンションの掲示板に「来週、町内の公園清掃があります。ご協力お願いします」と貼り紙が出ていた。

「せっかくだから、参加してみませんか」

「はい。ご近所の方とも、もっとお話してみたいです」

二人は軍手と帽子を用意し、集合場所の公園へ向かった。


 当日、公園には十数人の住民が集まっていた。上の階のご夫婦、隣の家族、年配の女性も参加している。

「おはようございます」

「お世話になります」

まだ少しぎこちない挨拶を交わしながら、みんなで落ち葉を集めたり、花壇の草取りをしたり。


 作業の合間、上の階のご主人が直樹に声をかけてきた。

「この町は静かで住みやすいですよ。うちはもう十年以上になるかな」

「そうなんですね。私たちも、ここで長く暮らせたらいいなと思っています」


理江は隣の奥さんと、子どもの話やスーパーの特売情報で盛り上がっていた。

「うちの娘、ピアノがうるさい時があるかもしれませんが……」

「いえいえ、子どもの声が聞こえると、なんだか安心します」


 清掃が終わると、町内会の方が温かいお茶とお菓子を配ってくれた。

「よかったら、どうぞ」

ベンチに腰かけて、みんなで一息つく。


「お二人はどちらから?」

と聞かれ、

「それぞれ別の区で一人暮らしをしていましたが、結婚してこちらに越してきました」

と答えると、

「まあ、それはおめでとうございます」

と拍手が起きた。


 年配の女性が、

「今度、読書サークルにいらっしゃいませんか?」

と誘ってくれる。

「ありがとうございます。ぜひ参加させてください」

理江は嬉しそうにうなずいた。


 その日の帰り道、

「思い切って参加してよかったですね」

「はい。みなさん優しくて、なんだか心強いです」

二人は、町の人たちとの距離が少し縮まったことを実感していた。




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