熟年で結婚、育児しました。

数金都夢(Hugo)Kirara3500

路地裏の地図

 とある土曜日の午後に、曇り空の下十数人のグループが静かに歩いていた。定期的に開催されている市民講座の「地元歴史散歩」。 直樹は、みんなから少し離れて歩きながら、古い町並みの路地をじっと見つめていた。


 ふと、古びた石垣の角で立ち止まる。スマートフォンの画面には、戦前の地図の画像。

「この路地、昔はここまで続いていたはず……」

直樹なおきは小さくつぶやきながら、今と昔の地図を見比べていた。


 その時、後ろからそっと声がかかった。

「……もしかして、古地図見てるんですか?」

驚いて振り返ると、同じ講座の参加者の女性が、控えめに微笑んでいた。

「え、あ、はい……」

直樹は少し戸惑いながらスマホを隠しかけたが、彼女は「私も古地図好きなんです」と続けた。


「この道、昔はもう少し広かったんですよね。ほら、ここに川があったみたいで」

彼女は自分の手帳を開き、色鉛筆で描かれた昔の町のスケッチを見せてくれた。直樹は、思わず目を見開いた。

「すごい……自分で描いたんですか?」

「はい。地図と今の景色を見比べるのが楽しくて」

彼女は少し照れくさそうに笑った。

「……僕も、地図で昔の道を探すのが好きなんです。今日も、ここが昔どこまで続いてたか気になってて……」

直樹は、スマホの画面をそっと差し出した。

「わあ、こんなに細かい地図があるんですね。どこで見つけたんですか?」

「市の図書館のデジタルアーカイブです。無料で見られるんですよ」


 気がつけば、二人は他の参加者から少し遅れて歩いていた。

「あ、すみません、つい夢中になっちゃって……」

「いえ、私もです」


 講座の最後、駅までの帰り道。

「もしよかったら、今度一緒に図書館で古地図を見ませんか?」

彼女がそう言うと、直樹は少しだけ勇気を出して頷いた。

「……はい、ぜひ」


 曇り空の下、二人の距離はほんの少しだけ縮まった。


 翌週の土曜日。 直樹は少し早めに市立図書館に着いた。 入り口の自動ドアの向こう、彼女こと理江りえはすでに席を取って待っていた。


「こんにちは」

「こんにちは。早いですね」

「地図コーナー、空いてました」

ぎこちない挨拶のあと、二人は並んで閲覧用のパソコンに向かう。

「これが、こないだ話してたデジタルアーカイブです」

直樹が画面を操作し、昭和初期の町並みが映し出される。

「うわぁ……細かいですね。あ、この通り、今はもうなくなってますよね」

「そうなんです。ここの商店街、昔は川沿いだったみたいで」

地図を拡大したり、現在の航空写真と重ねてみたり。 最初は画面を挟んでいた二人の距離が、いつの間にか自然と近づいていた。

「私、昔から地図を見るのが好きで。 地図帳の端っこに、知らない町の名前が出てくると、どんな場所なのか想像してたんです」

理江が、少し照れくさそうに言う。


「僕もです。子どもの頃、地図帳の隅にある小さな池とか、絶対行けないだろうなって思いながら見てました」

二人は思わず笑い合った。


 「そうだ、よかったらこのあと、この地図に載ってる“旧○○小路”を歩いてみませんか?」

理江は、そっと提案する。

「はい。ぜひ」


 図書館を出て、春の風が吹く通りを歩く。 地図を片手に、昔の川跡を探しながら、

「ここ、昔は橋があったみたいですね」

「今はマンションになってるけど、石垣が残ってますね」

と、二人だけの「マニアックな街歩き」が始まる。


 途中、古い石碑の前で足を止める。

「この碑、明治時代のものみたいです」

「誰も気づかないですよね、こんな場所に……」

「でも、こういうのを見つけるのが楽しいんです」

「……わかります」

沈黙が気まずくない。互いに“好きなもの”を共有する心地よさが、静かに二人の間に広がっていた。


 二人は日が傾き始めるころ、駅前まで戻ってきた。

「今日はありがとうございました」

「こちらこそ。とても楽しかったです」


「また、どこか歩きませんか?」

直樹は、少しだけ勇気を出して言った。理江は、柔らかく微笑んだ。

「はい。ぜひ」

春の夕暮れ、二人の影が並んで伸びていた。


 それから、二人は月に一度のペースで街歩きを重ねるようになった。最初は市民講座の延長のように、地図や歴史の話が中心だったが、回を重ねるごとに“自分たちだけの発見”が増えていった。


 ある日曜日、二人は下町の古い商店街を歩いていた。

「このパン屋さん、創業昭和二年って書いてあります」

「昔ながらのクリームパン、気になりますね」

思い切って店に入り、焼きたてのパンを買う。


「外で食べませんか?」

二人は近くの小さな公園のベンチに腰掛け、パンを分け合う。

「こうやって誰かと外でパンを食べるの、久しぶりです」

「僕もです」

素朴な味に、二人は思わず笑顔になる。


 歩きながら、ふと理江が口を開く。

「実は、昔は人と話すのが苦手で。職場でも、ランチはいつも一人で済ませてました」

「僕もです。休みの日は一人で地図を見て、歩いてばかりでした」

「でも、こうやって誰かと歩くのも、悪くないですね」

「はい。とても」


 ある時は、古い神社の境内で、偶然お祭りの準備をしている町内会の人に出会う。 「よかったら見ていきませんか?」と声をかけられ、 二人で境内の縁台に座り、子どもたちの太鼓の練習を眺める。


「昔はこういうお祭り、家族で来たことがありました」

「僕は、親が忙しくて、あまり連れて行ってもらえなかったです」

「でも、今こうして見てると、少しだけ子どもの頃に戻った気がします」

「わかります」

時間がゆっくりと流れていく。


 帰り道、夕焼けに染まる川沿いを歩きながら、

「また、どこか行きたい場所があったら教えてください」

「はい。地図で気になる場所、たくさんメモしてるんです」

「楽しみですね」

自然と、次の約束が生まれる。


 その日の別れ際、理江がふと立ち止まる。

「……直樹さん」

「はい?」

「こうやって一緒に歩いてくれる人がいるって、すごくありがたいです」

「……僕もです」

言葉は多くない。でも、互いに伝わるものがあった。小さな発見を重ねるごとに、二人の距離は少しずつ、でも確実に近づいていた。


 季節は梅雨。その日も、二人はいつものように待ち合わせて小さな寺町を歩いていた。空はどんよりと曇り、しばらくすると、ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。

「傘、持ってきてないです……」

「僕もです」

近くの古い喫茶店に駆け込む。店内は薄暗く、木のテーブルと椅子が静かに並んでいた。


 コーヒーを注文し、窓の外の雨を眺めながら、しばらく無言の時間が流れる。ふと、理江がぽつりと話し始めた。


「……実は、去年まで母の介護をしていました」

直樹は驚いて顔を上げる。

「そうだったんですか」


「父は早くに亡くなって、ずっと母と二人暮らしでした。母が亡くなってから、何かぽっかり穴が空いたみたいで。 何をしても、ひとりぼっちだなって思ってました」

理江は、カップを両手で包み込むように持った。


「僕もです」

直樹は静かに語り始める。

「僕は、親の介護はなかったけど、ずっと独り身で。兄弟もいないし、仕事もずっと同じ場所で同じことの繰り返し。家に帰っても誰もいなくて、休みの日はただ歩いているだけでした」


「寂しくなかったですか?」

「やはり寂しかったです。でも、それが当たり前だと思っていました」


 窓の外の雨脚が強くなる。

「でも、こうして誰かと同じ景色を見て、同じ道を歩けるのは、やっぱり嬉しいです」

直樹は、少し照れくさそうに言った。


「私もです」

理江は、静かに微笑んだ。


 その時、店の奥で小さな子どもの泣き声が響いた。若い母親が慌ててあやしている。

「昔、母とこういう喫茶店によく来たんです。母はコーヒー、私はクリームソーダ。今でも、あの味を思い出すと、なんだか泣きそうになるんです」

理江の声が少し震える。


 直樹はそっと、

「今度、一緒にクリームソーダを飲みませんか?」

と言った。理江は目を細めてうなずく。


 雨が小降りになり、二人は店を出た。

「また、歩きませんか?」

「はい。ぜひ」


 その日を境に、二人は互いの過去や家族のことも少しずつ語り合うようになった。ただの“街歩き仲間”から、“心の支え”へ。関係は、静かに、新しい段階へと進み始めていた。


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