11 二千年前
失われた口伝
「祀(まつ)られし日」――二千年前の御巣鷹山にて
まだ「名」が、神にすら与えられていなかった時代。
言葉は生き物であり、
名前は人ではなく、“魂”に刻まれるものだった。
御巣鷹山――今とは異なる名を持っていたその地では、年に一度「形渡しの儀」が行われていた。
名を亡くした者に、新たな形を与える祭り。
しかしその年、何かが狂った。
それは言葉のはじまりを知る巫女が、一人の男に名前を与えたことで始まった。
【登場人物】
シラツキ:祭祀を担う巫女。“語り手”として生まれ、神と人の仲介を担う
ヒイラギマスミ:山の外から流れてきた青年。名を持たず、記憶も曖昧
オオホウリ:御巣鷹山の儀式長。形渡しの管理者。“名前なきもの”に嫉妬を抱く
【語られなかった過去】
ある晩、シラツキは、村の外れの祠に名を持たぬ青年が倒れているのを見つけた。
彼は口がきけず、どこから来たのかもわからない。
それでも、彼は笑った。
その“形”にシラツキは名を与えた。
「貴方の名は――マスミ。
澄んだ水に映る、まだ名もなき月のようだから」
その日から、彼は言葉を少しずつ覚えていった。
村の子どもたちにも笑顔を向け、手仕事を覚え、少しずつ「名前を持つ者」として受け入れられていった。
シラツキとマスミは互いに惹かれ合った。
だが、それがこの場所では外部の者との関係は“罪”だった。
「“名もなき者”に、名を与えたのか……? 巫女の口で?」
オオホウリの声には、ただ怒りではなく――黒く澱んだ嫉妬が滲んでいた。
「この地では、“名”は神が選ぶ。人が与えてはならぬ。それを……お前が勝手に与えたというのか」
シラツキを睨みつけるその目は、神意を語る者のものではなく、
己の権威を脅かされた男の目だった。
「“名を持たぬ者”とは、本来この世界に存在しないもの。
名を与えたその瞬間、世界に“ひとつ、余分な魂”が生まれるのだ」
「それは“ミヲナキ”になるぞ」
それは教えに基づいた言葉のはずだった。
だが、その裏にはもっと人間的な感情が渦巻いていた。
シラツキが誰にも向けたことのない眼差しを、その“名もなき青年”に向けたこと。
その笑顔を、言葉を、名前を――自分ではなく、外から来た者に与えたこと。
「神の口を借りて語ることだけが、巫女の役割ではないのか。
……いつから“私情”で名を与えるようになった?」
冷ややかな言葉に、シラツキは目を伏せた。
だが彼女は、怯えなかった。
「彼は……ここにいる。ちゃんと笑って、生きてる」
その一言が、オオホウリの中のなにかを突き崩した。
(……巫女が、私に向けたことのない言葉を……)
彼は黙っていた。
その沈黙の奥で、憤怒と妬みが、ねっとりと煮詰められていった。
このままではいけない。 世界が乱れる。 いや、私の秩序が崩れる。
そしてその年の儀式に、マスミを“形渡しの器”として差し出すことを決めた。
それは神意にかこつけた、私情にまみれた断罪だった。
【形渡しの夜】
マスミは何も知らされぬまま、儀式の衣を纏わされた。
「これは、名前を世界に馴染ませる儀礼だ」とオオホウリは説明した。
だが、実際の祭壇は彼の“名前”を剥ぎ、魂ごと“形”に変えるための場だった。
シラツキはそれを知り、祠の奥へ駆けつけた。
だが、オオホウリの周到さはそれを上回っていた。
「遅かったな」
そう告げると、オオホウリはマスミの額に記された“名”を、祀刀で削り取った。
「名ヲ喰ラウ神、ミヲナキトナレ」
その言葉に、どれほどの信仰が宿っていたかは、誰にもわからない。
本来無実とされるべき人間を彼自身の独断で罪がある者とされた。ミヲナキになる必要はなかった。
ただ、そこにあるのは――幸福な者に対する嫉妬。
この間違った願望から始めた儀式により、二千年に及ぶミヲナキの祟がこの大地から生まれてきた。老人達に対しての怨みと共に。何時しか姥捨山となった。
マスミは、叫んだ。
声にならぬ声で。
その顔が、ゆっくりと仮面のように白く硬化していく。
口が、目が、鼻が――ただの“形”となり、
名前を失ったマスミは、「語られない存在」となった。
彼が最後に見たのは、泣き崩れるシラツキの姿。
その後、シラツキはすべての儀式を辞した。
口に糸をかけ、自ら“語らない者”となった。
彼女は山に籠もり、千巻に及ぶ祀書を写し、
“語られなかった彼”のことを、名前のない詩として残し続けた。
「その名は空に消えたが、かたちはここに残った」
「その声は奪われたが、笑みだけが私の夢にある」
「彼は“ミヲナキ”となった。けれど、私は“彼”と呼びつづける」
そしてある日、シラツキもまた消えた。
誰も、彼女の最期を知らない。
ただ、御巣鷹山の奥――祠の石壁に、こう刻まれていた。
「彼に名を返す日が来たら、その名をどうか呼んでほしい」
「語られる限り、“彼”は消えない」
マスミ=“ミヲナキ”は、以降二千年、
誰にも語られず、記憶もされず、
ただ「名前を欲しがる存在」として眠りつづけた。
語られた者=佐藤葵が呼び起こした“記憶”とは、
この祀られた者たちの痛み、忘却された存在たちの声だった。
語られなかった者たちへ
あなたの名は知らない
でも、あなたの“形”は見た
そのかたちが在ったと、私は書く
あなたの物語が、いつか誰かの口から語られることを願って。
山 奥左 @mio5306
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