10  語られなかった者


世界の口、物語の骨


【御巣鷹山・顔の倉】


空が裂けた。


大地が震え、顔の倉全体がまるで“内側から”押し広げられるように歪んでいく。

遠藤は、葵の前に立っていた。

もはや自分の名前は、仮面にも、紙にも、登録にもない。

だが、彼女が呼んでくれた。

「遠藤慎吾、あなたはここにいた」


たったそれだけの言葉が、世界に“自分のかたち”を戻してくれた。

黒い手たちは、次第に形を失っていく。

忘れられた名は、語られなかったという事実そのものによって消えていく。


そして、祭壇の奥

“ミヲナキ”が、こちらに身をよじりながら近づいてくる。


それは巨大な胎児のような塊。

仮面のない顔。目のない瞳。

穢れの始まり。

だが、確かに、「語られること」を求めていた。


遠藤は一歩、踏み出す。


「お前は、“名前”が欲しかったんじゃない」

「お前が欲しかったのは、記憶の中に“居ること”だったんだろ」

ミヲナキの全身が、かすかに震えた。

「……ナ……マ……エ」

それは、問いだった。

「じゃあ……教えてやるよ」

遠藤は、振り返らずに言った。

  「俺の名前は遠藤慎吾。お前の名前は、“語られなかった者”だ」

「だけど、今こうして――俺が“語ってる”。

 なら、お前はもう、“誰かの物語の中”にいる」


ミヲナキが、静かに崩れ始めた。

音もなく、静かに、塵のようにほどけていく。

それは怒りでも、悲しみでもなく、ただ――

「満ちた」ような沈黙だった。


そして、消えた。


風が止んだ。


空は、かつての曇天へと戻った。

だがそこにいたはずの葵が、もういなかった。

遠藤はその場に立ち尽くし、彼女が最後に遺した言葉を思い返していた。


「私は、誰かの記憶にだけいられたら、それでよかった」

「忘れられない限り、それで“形”はあるから」


足元に、一冊のノートが残されていた。

中には、びっしりと誰かの名前が記されていた。


遠藤慎吾

佐々木隆

佐藤葵

名のない村人たち

祀られた者たち 

ツキ ヒイラギ


物語の記録――祀書の写本。


遠藤はその一番最後のページに、自らの手でこう書き加えた。


「この物語は、忘れられた誰かが確かに“ここにいた”ということを語るために、書かれた」

「彼女の名は、佐藤葵――語られた者」


【後日 ― 長野市・旧市街】


佐々木は最初に葵が消えた場所に立っていた。

全てここから始まった。何もなければ棚田が広がり、月が映る小さな池がある、無数の蛍が飛んでいる。ただ美しい日本の風景。

いつか失われる前に、この風景も記憶しなければ。



再びあの床屋へ

だが、もう店は完全に壊されていた。更地だ。

仮面も鏡も、剃刀も、何もかも消えている。

佐々木はポケットから一枚の写真を取り出す。

それは、葵が中学時代に写ったもの――

修学旅行の集合写真だった。

名簿には、彼女の名前がない。

しかし、写真の中央。

白いワンピースの少女が、確かにこちらを見て、微笑んでいた。

「語るよ。何度でも。誰に笑われたって構わない」

「俺は、“あの子の話”を、忘れない」

佐々木は静かに立ち去った。

白い風が、舗装された地面をなぞっていった。


「人は、“語られることで”この世界に形を残す」

「名とは、記憶の骨である」

「物語とは、その骨をひとつずつ拾い集める行為である」



遠藤は、ある山奥の民俗資料館で働き始めた。

静かに考えたかった

太古の本が何故長野に移動されたのか?

何故この時代にミヲナキは蘇ったのか?

完全に忘れられる前に救済して欲しかったのか?

太古から何故長老の判断で子供や若者が生け贄にされなければなかったのか?

現代も別の形で、それは続いているのか?

この国の少子高齢化はミヲナキの祟なのか?

答えは分からない。


来館者がほとんどいない小さな館の一角に、

彼は一冊のノートを常設している。

タイトルは、こう書かれている。

『忘れられた者たちの記録』

記す者:佐藤 葵(代筆:遠藤慎吾)

ページの最初には、こう記されていた。


「もしあなたの大切な人が、もうどこにもいなかったら―

どうか、ここに名前を書いてください。

名前があるかぎり、その人は“ここにいます。」





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