9 名前
【御巣鷹山・顔の倉 祠】
仮面を掲げた遠藤の周囲に、黒い手が次々と這い寄ってくる。
それは“影”ではなかった。
記憶されなかった者たち
その残骸。
その欲望。
その「名前を取り戻したい」という、飢え。
「オマエノナマエハ、オレノモノ」
「オマエノカオハ、カタチトナル」
その声は、外からではなく、遠藤自身の脳内から響いていた。
彼は仮面を握りしめながら叫んだ。
「俺は……誰だ!? 本当に、“遠藤慎吾”だったか……?」
答えは、ない。
代わりに、仮面の裏に刻まれていた文字が“滲んで”いく。
筆跡が崩れ、名前が歪む。
そして――
「エ……ン……ド……?」
最後の一文字が消えると同時に、仮面が脈打ち始めた。
【長野・山道 ― 向かう佐々木】
顔の倉へ向かう山道を、佐々木はボロボロの体でよじ登っていた。
左腕はすでに感覚がなく、視界もかすんでいる。
しかし手には、祀書。
それが示す“最終儀式の条件”を、佐々木は読み取っていた。
「“ミヲナキ”を縛るものは唯一、“語られた名”なり」
「語り手が“語ること”を選びしとき、世界は名前を保ち得る」
「語る……誰が?」
そのとき、頭の奥に響くように、かすかな“声”が聞こえた。
「……逃げて……」
それは、葵の声だった。
しかし、それは耳ではなく、記憶の中から呼びかけてきていた。
「まさか……あいつ、“語る者”になるつもりか……?」
【顔の倉 祠内部】
無数の手が、ついに仮面へと伸びる。
遠藤は、それを自ら地面に叩きつけた。
バキィッ―
割れた。
仮面は粉砕された――が、その瞬間、
“空白の場所”が、遠藤の顔に重なった。
「お前の名は、もう“他の誰かのもの”になった」
遠藤の意識が、一瞬にして引き裂かれる。
彼の記憶が、塗りつぶされていく。
幼い頃の記憶:名前が、声にならない
青年期の記憶:顔が、鏡に映らない
現在の記憶:居場所が、どこにもない
“お前は語られなかった”
彼は震えながら、崩れかけた祠の中に立ち尽くした。
「なら……俺の“かたち”を、お前には渡さない」
そのとき。
少女、糸を断つ
葵の手が、静かに口元へと上がる。
黒糸に指をかけ―
ゆっくりと、自らの縫い目を引き裂いた。
血が滲む。
だが、彼女は一言、たしかに語った。
「私が“語る”。この世界に、“彼”の名を残す」
その瞬間、全ての“黒い手”が震えた。
祠に満ちていた“忘れられた者たち”の呻きが、悲鳴に変わる。
「コトバハ、オレタチノモノ……!」
「カタリベヲ、クチフサゲ!」
だが遅かった。
葵の声は確かに、“名”を呼んでいた。
「遠藤慎吾、あなたはここにいた」
「あなたは、私を見つけてくれた」
祠の奥で、ミヲナキの核――仮面を持たぬ白い塊が、身をよじった。
「……ナ、マ……ヲ……」
叫びのような、嘆きのような、
あるいは――初めて言葉を知る“神の幼児”のような声だった。
【山の全域が、鳴動を始める】
顔の倉の地盤が揺れる。
空が、裂けるように“白く”なる。
佐々木が崖からその光景を見下ろす。
「始まったか……いや、これは“終わり”じゃない。語り直しだ」
彼はポケットから最後の一枚の紙切れを取り出した。
そこには、かつて葵が書き残した一文があった。
「私たちは、忘れられたくなかった」
「だから、語られたかった」
「だから、名を返したかった」
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