8 記憶
【群馬・御巣鷹山 祠内部】
遠藤は、静まり返った空間の中央で膝をついた。
佐藤葵
白いワンピースの少女は、こちらに顔を向けている。
彼女の口元には粗末な黒糸が何重にも縫い込まれており、唇の輪郭はもはや「口」としての意味を失っていた。
それでも、彼女の瞳は確かに“語って”いた。
「あなたが、“最後の呼び手”」
秋庭が後方で何かを呟いたが、もう遠藤には届いていない。
彼の頭の中では、例の紙に記された言葉が繰り返されていた。
「次に“かたち”になる者へ。お前の“顔”は、既に選ばれている」
葵の手が、そっと胸元から何かを差し出す。
それは、無地の仮面。どこにも穴が空いていない、まっさらな“面”。
「これは……俺の?」
少女は頷く。
遠藤は恐る恐るそれを手に取った。重い。冷たい。まるで骨のような……
そのとき、仮面の裏側に、何かが浮かび上がった。
遠藤慎吾
自分の名前。
そしてその下に、小さく、古代文字のような筆跡が刻まれていた。
「名前(言葉)を与えれば、“かたち”は成る。
だが、顔を戻せば、“存在”は還る」
「……これは、俺の“消失契約”ってことか」
そう呟いた瞬間、彼の背後で祠の奥――封じられていた石の扉が「ミシ…」と動いた。
【同時刻 ― 長野・床屋跡】
老婆が倒れたまま絶命していた。佐々木は血で濡れた《祀書》を開いた。
そこには、“顔の倉”の地図と、明らかに現代ではありえない古語体で書かれた指示があった。
「倉の扉は、“呼び手”が己の“名”を仮面に刻んだとき、開かれる」
「“ミヲナキ”に再び形を与えてはならない
それが、かつての大禍(おおわざわい)の因となりしものなり」
「ミヲナキ……それが、この儀式の核……?」
店の壁には、割れた鏡の残骸がまだ散らばっている。
だが、その破片の一枚に――
遠藤の顔が、歪んで映っていた。
だがその“顔”には、口が、なかった。
「遠藤……お前、まさかもう……!」
【御巣鷹山 奥地 “顔の倉”】
石の扉が完全に開くと、そこには無数の“仮面”が整然と並んでいた。
仮面にはそれぞれ、古今東西の「名」が記されている。人のもの、神のもの、忘れられたもの。
しかし、その中央にぽっかりと空いた棚がひとつ――
“空の位置”。
秋庭がぽつりと口にした。
「そこに、“ミヲナキ”の面が嵌るとき……この世界の“記憶”が、書き換えられる」
「記憶って……人の記憶か?」
「“世界の”記憶だよ」
仮面棚のさらに奥。
巨大な黒布に包まれた、異形の何かが眠っていた。
それは顔を持たない神の胚。
「“ミヲナキ”は、もともと“名”しかなかった。だから、誰にでも“なれた”」
秋庭の声は、もう震えていた。
「今度は――遠藤、お前になるつもりだ」
【祠内】
葵が差し出した仮面を手にした遠藤の背後に、仮面棚から影が滑るように近づいていた。
“何か”が這ってくる。
それは、何百年も使われず積み重なった「忘れられた名前」の集積だった。
名も、かたちも、残されなかった存在。 ただ、思い出されるのを待ち続けた“無”の集合体。
“ミヲナキ”
それは、「名を返されること」によって、“存在”を得る。
そして今、遠藤が“名を刻んだ仮面”を手にしている―それが合図。
葵がかすかに口を震わせた。
縫い糸の下で、かすかに聞こえる。
「逃げて」
次の瞬間、祠の天井が崩れ、無数の黒い手が仮面に向かって伸びた。
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