7 ミヲナキ



鏡が砕けた瞬間、空間の“音”が変わった。


老婆の動きは止まり、目だけが虚ろに動いている。

「……あの子が、ここを“結び直した”……」

佐々木は、震える左腕を押さえながら床を転がり、足元に落ちていた古びた革の冊子を掴んだ。

それは、かつて神域で行われたという“儀式”の記録―《祀書(ししょ)》だった。

「これが……全部の、始まりか」

本の表紙に触れた瞬間、まるで夢のように意識が沈み込んでいく

【約2000年前 ― 御巣鷹山 “顔の倉”】


神官の衣を纏った少女が、一枚の仮面を静かに掲げていた。


仮面は、骨と和紙で作られており、内側には名前が逆さ文字で書かれていた。


“名は呑まれ、かたちは仮りる”


呼び手”と呼ばれたその少女の隣に、“口を閉じた者”が並んでいた。

儀式とは、「記憶に残るための処置」に過ぎなかった。


「名を遺せば、“かたち”は残る。だが、“口”が語れば、記憶は喰われる」

白い衣の老女が、呪文のようにそう呟いた。

「だから“口”は縫うのだ。語らせず、ただ在りつづけるために」

太古の呪術、神に捧げる生け贄。

老人が記憶を保ちたい生き続けたい願いのみの儀式。永く子供が殺されていた。


哀れな程貪欲な生存欲。


【現在 ― 御巣鷹山 神域跡】


遠藤は、古びた紙を胸に押し込んだまま、秋庭に問いかけた。

「“葵”は……本当に“自分の意思”でこれに加わったのか?」


秋庭は、静かに頷いた。


「……彼女は、“記憶されること”を望んだ。名前が忘れられるくらいなら、形の中に閉じ込められる方がマシだと」


そして、ついに森の奥にある祠のような建物にたどり着く。

扉は半ば開かれ、中は静寂。だが、確かに誰かがいる気配があった。


遠藤が一歩、足を踏み入れると、

そこにいた。

白いワンピースの少女――佐藤葵。

彼女は、顔をこちらに向けた。

その口は、縫い合わされていた。

涙のようなものが、片方の目から流れたが、それすらも静かな儀式の一部のようだった。


【再び 床屋】


老婆は、床に崩れ落ちながら笑っていた。

「……“祀り直し”が、始まるね。今度こそ、“名”は途切れない」


佐々木は、手の中の《祀書》を見た。


そこには、新たに墨で書かれた一文があった。


“呼び手”は揃った。“かたち”は集まった。 最後の“口”が閉じられれば、還りは完了する。

鏡の破片のひとつに、自分の顔が映らないことに彼は気づいた。


「……まさか、俺が“かたち”なのか……?」

その瞬間、店内の空気が凍りつく。

誰かが、外で床屋のシャッターを“カラン”と上げた。

次に来たのは、“名を返す者”だった。


---面を持たぬ神“ミヲナキ”が目を覚ます。






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