第3話

 どくんと一つ、嫌な心音が鳴る。


 いつまで此処にいるのか。どうして此処にいるのか、という伊角くんからの問い。そして今日初めて会った時に、伊角くんが私に掛けた声は──。


「……そういうこと、だったの…?」


 私の呟きに、伊角くんは首を横に振った。

 初めから何もかも理解っていたのなら、否定することないのに。


「……文月さん」


 どうして私は泣いてるんだろう。伊角くんは何故悲しそうな顔をしているんだろう。

 涙の理由なんて、依然として知れないけれど。


 伊角くんが差し出したハンカチが、それを受け取ろうと伸ばした私の手を通って床に落ちていくのを見たら、啖呵を切ったように涙が溢れ出した。


「…こんなことを言う資格、俺にはないんだけど、できれば泣かないでほしい」


 人を慰めたりとか励ましたりだとか、そういうことはしたことがないしされたこともないから、と続ける。


 けれどその言葉とは反対に、伊角くんの指先は何度も私を梳いていく。


 そうされるたびに悲しくて辛くて、どうしようもない気持ちがあふれるだけだというのに。


「私、死んじゃってたんだね」


「文月さん」


「あの日、伊角くんは止めてくれたのに」


「違う、文月さん」


「違うって、何がっ…!?」


 必死に否定してくるくせに、私に指一つ触れることができない伊角くんの表情が切なすぎて息が詰まる。肩で息をしながら、頭一つぶん背が高い伊角くんを見上げた。


「…それならそうと言ってくれればよかったのに」


「文月さんに俺の声は届かないんだね」


「だって、私は今息をしていないもの」


 何もかもが終わった今、たとえ伊角くんの話を聞いたとして、変わることなんて一つもないだろう。それを分かっていないから、こうして何度も同じことを言ってくるのだ。


「あの時諦めなかったら、今私は伊角くんに触れることができたのかな」


「…また逢えるから。また話せるし、握手なんて何度だってできるから、そんなふうに言わないでほしい」


 だからお願い、目を閉じて、と。


 まるで恋人にお願いするような甘くて優しい声音でそう囁かれた私は、一度だけ頷いて目を閉じた。


 閉じた瞼の裏は真っ暗闇ではない。体が浮くような感覚がして、そっと瞼を持ち上げる。


 ここはどこだろう、と思った時にはもう、何もかもが真っ白になっていた。


「      」



 どこからか、誰かが私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。


 ──あなたが生まれた日はね、夕暮れの秋だった。病院の窓の向こうで、たくさんのススキが風で揺れていたわ。


 それは私が子供の頃に、母が言っていた言葉だ。どうして私の名前は茅なのかと尋ねた私に、母は微笑みながらそう言っていた。


 あなたの名前は、あなたに生まれてはじめて贈ったプレゼントなのだ、と。


 だというのに、私は自ら命を絶った。せっかくこの世に生を受けたというのに、生きることが辛くなって逃げ出してしまったのだ。


 今思えば、最低なことをしたと思う。それに気づくことができなかったのは、イジメと呼ばれるものを学校で受けていたからだ。毎日が辛くて悲しくて仕方なくて──私は幕を下ろした。


「       」


 誰かが、私を呼んでいる気がする。


 でも、体が重くて思うように動かない。


「      」


 誰なのだろう。誰一人として手を差し伸べてくれる人がいなかった私の名前を呼んでいるのは。変人に違いないから、顔を拝んでみたい。会って話がしたい。


 そう思った私は、ゆっくりと目を開けて、その先に飛び込んできた光に目を細めた。


「──言ったでしょ。また逢えるって」


 光の正体は、なぜか息を切らしている伊角くん、だった。



「目を、醒ましたって聞いてっ…」


「…………」


「ずっと眠ったままだっていうのは知ってたけど、特別親しくもないし、話したこともほとんどないし、」


 違う、そんなことが言いたいんじゃない、と伊角くんは頭を抱えてしゃがみ込んだ。伊角くんらしからぬ姿がなんだか面白くて、思わず笑ってしまいそうになる。


 その時初めて、私は病院のベッドの上に寝かされていることに気づいた。力が入らない右手を握っている母が、何て馬鹿なことをしたの、と今にも叫んで泣き出しそうだ。


「……おかあ、さん。いすみく…」


「……茅、本当によかったっ…」


 母が声を上げて泣き出した。その後方にいる父は背を向けていたのでどんな顔をしているのかは分からないが、肩を震わせていたから予想はつく。


 伊角くんはというと、空いている左手に自分の手を重ねると、泣きそうな顔で微笑んだ。


「……ほら、触れた」


「…いすみ、くん」


「生きてさえいれば、人はなんだってできるんだよ」


 そう言って、指先で私の涙を掬い取っていく。その姿は、自分以外の存在なんてどうでもいい、と言って教室で本をめくっていた彼と同一人物とは思えなかった。


 左手に灯る熱を逃さないように、伊角くんの手を精一杯握りしめて、私は声になっているのかわからない声で囁いた。


 ──また逢えたね、と。

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【短編】尾花と風ききぐさ 北畠 逢希 @Akita027

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