【第九話:揺らぐ魔力、獣の理と人の理】
午後の陽光が斜めに差し込む頃、学院東棟の最上階――そこにユリ:トキワの私室はあった。
広く静かな部屋の中には、魔導水晶と金属製の演算器が組み込まれた机が置かれ、書架には古今東西の魔導理論書が整然と並んでいる。天井には月と星を模した光球が浮かび、窓辺からは外の風が涼やかに吹き込んでいた。
窓は大きく開け放たれ、そこから望む空には、高くたなびく雲と遠くに輝く塔の尖塔が見えていた。
その窓辺に、ユリは佇んでいた。
「……この風の匂い、どこか懐かしい」
長い黒髪がさらりと揺れる。目を閉じた彼女は、かつての世界を思い出していた。
コンクリートのキャンパス、無機質な教室、量子の講義を淡々と語る日々。合理性を信じ、魔法など存在しないと信じていた日々――。
だが、ある日その世界は唐突に終わった。
異界との「門」が、彼女を呼んだのだ。
「この世界に来て、もう何年になるかしら……」
この
卓上の水晶に手をかざすと、演習の記録映像が浮かび上がった。
まず映ったのは、アデル:セリオル。教室で、演習場で、仲間と共に魔力を操る姿。
(光と闇。――それは本来、同時に存在してはならない対の力)
だがアデルは、どちらも否定せず、むしろその“均衡”を追い求めようとしている。
「愚直なまでにまっすぐ……けれど、それが彼の強さ」
ユリは微笑んだ。彼の姿は、あの世界で出会った若き研究者たちを思い出させる。未完成で、不器用で、それでも懸命だった者たちの姿を。
映像が切り替わり、次に現れたのは、リリス:ブラッドの記録。
仲間との演習の中で、確かに結果を残しつつも――その魔力の波長には、どこか異なる“揺らぎ”が混ざっていた。
(あの子の魔力……分類できない)
風と炎の融合では説明しきれない、魔力の不確定性。明確な「異物」ではない。だが、測定不能な“何か”を含んでいた。
「気になるわね……でも、彼女はそれを自分で制御しようとしている」
だからこそ、問い詰めることはしない。押しつける知識では、人は育たない。ユリが学んだのは、異世界の論理ではなく、“信じて見守る”という姿勢だった。
水晶をひとつの映像に固定する。映し出されたのは、シリウス:ヴェルグレイン。
完璧な立ち居振る舞い、無駄のない魔力制御。その美しさと同時に、ユリはその奥にある“静かすぎる沈黙”を見ていた。
「……完璧すぎる者ほど、どこかが空洞になる」
彼は仮面をかぶっている。それが“自覚的”であるか否かは、今はまだ見えない。
ユリは自らの椅子に腰を下ろし、魔導演算装置に手をかざす。魔力の波形を記録したグラフが幾重にも重なって現れる。アデル、リリス、そして……シリウス。
この学院には、未来を導く力が集まっている。
それは運命ではなく、選択の連鎖が生んだ奇跡。
ユリは目を細め、ふと窓の外へ視線を向けた。
「私の役目は、“可能性の風”を閉ざさないこと」
それは教師としての誓いであり、異界の者として、この世界への“約束”だった。
(私は……あの世界には戻れない。でも)
この学院で教える限り、魔法と共にある限り、彼女は生きている。
風がカーテンを揺らし、花の香りがふと鼻先をかすめる。
「さあ、次の講義に向かいましょうか」
ユリは立ち上がり、ローブを整えた。
静かな歩みが部屋を出てゆく。異世界の理論を纏った一人の教師が、再び生徒たちの“可能性”に向き合うために――。
◇
陽光の差し込む朝の校庭。魔導学園ルクシアでは、この日、第一学年の実地訓練が行われていた。
目的地は学園から東方に広がる《ルナーシュの森》。静かだが魔力が濃く、野生の魔物も潜むため、生徒にとってはまさに“実地”と呼ぶにふさわしい課題地だった。
課題内容は、魔力回復に用いられる
見つけるには自然との調和力と探知魔法、さらに不測の戦闘に対応できる臨機応変さが試される。
「薬草採取といっても、油断は禁物よ。環境も魔物も、こちらの都合では動いてくれないのだから」
そう語るのは、担当教員のユリ:トキワ。
今回の探索では、各班に教師一名が同行し、訓練の進行と安全を見守る形式がとられていた。
アデル、リリス、ライカ――三人の班にも当然、彼女の監督がついていた。
《ルナーシュの森》は静寂と霧に包まれていた。
木々の間から差す陽光が、青白く揺れる朝靄に溶け込む。足元には湿り気を帯びた落ち葉。葉の裏には微かに魔素が染み、時折、枝先で光る小さな妖精のような虫が羽を震わせていた。
「このあたり、匂いが濃くなってきた」
前衛に立つライカ:フェングリムが立ち止まり、鼻を鳴らす。
彼の銀灰色の髪の獣耳がぴくりと動き、獣の瞳が斜面の奥を見つめる。
「……ここだな」
彼は土を払い、慎重に指で絡まる根を避けながら青く光る薬草――《アルトリウム》を摘み取った。
「すごいな、ライカ。もう八本目だろ?」
「ふん……鼻が利くのが、取り柄だからな」
アデルは採取記録用のノートを開き、リリスは草の根元を丁寧に整理しながら補助をしていた。
「自然の魔力に馴染んでるのね。……さすが獣人」
「褒め言葉か?」
「認めてるって意味よ」
穏やかな空気が流れる。
しかしその時――
「……ん?」
ライカの眉がわずかに動く。
視線の先にはアデルがいた。穏やかな顔でノートを閉じ、笑みを浮かべていたが――その背中を覆う魔力の“密度”が、どこか歪んでいるように感じられた。
(あいつ……妙に静かだ。だがその内側に、妙な“揺らぎ”がある……)
理屈では説明できない。だが、動物としての勘が警鐘を鳴らしていた。
そして――
(……リリスも、あの魔力は。風や炎じゃない……もっと、何か別の)
だが、言葉にはしない。ただ、胸の奥にわずかな警戒を仕舞い込む。
採取数が目標に達し、三人が帰路へと向かいかけたそのとき。
「――来る」
ライカが低く唸った。
風に混じる“魔物の臭い”。空気の流れにわずかに混じる鉄と腐敗の匂い。
「……囲まれてる」
その言葉と同時に、草木をかき分けて魔物の影が現れた。
◆ゴブリン×4体――緑色の肌と醜悪な顔つき、棍棒を手に唸り声を上げる。
◆ウインドウルフ×2体――灰色の毛皮、風の刃を纏う俊敏な四脚獣。
◆クロウ×1体――鋭い嘴と爪、旋風のような飛翔で狙いすます黒翼の鳥魔。
「挟み撃ち……!」
「問題ない。連携すれば、勝てる」
ライカが前に出る。
その身体に銀光が走り、筋肉が爆発的に膨張する。
「《獣化:月牙顕現(ムーンフェング)》――!」
獣人特有の変身。毛並みが鋭さを増し、牙が獰猛に伸びる。
「俺は中央突破を狙う! リリスは左、ティアの援護を!」
「了解! 《火焔弾(フレア・ボム)》!」
リリスが繰り出した火球がウルフに炸裂するが、すぐさま風の魔力がそれを拡散させる。
「ちっ、しぶといわね!」
「《闇閃斬(シャドウ・スラッシュ)》!」
アデルの斬撃がゴブリンの肩を裂き、続く横払いで二体目を斬り伏せる。
「速い……が、妙だな。闇の魔力にしては、威力が……」
ライカがゴブリンに拳を叩き込む。骨の砕ける音とともに、魔物は沈黙した。
「クロウが上空から来るぞ!」
羽音が耳を裂く。クロウが旋回し、斜めに急降下する。
「仕留めるわ、《火柱陣(フレイム・ピラー)》!」
リリスが詠唱を加速し、空中に火柱を展開。炎の壁がクロウの軌道を奪い、翼に傷を負わせて墜落させる。
「今だ、アデル!」
「任せろ――《光斬突(ルミナス・スラスト)》!」
閃光を纏った刃が、クロウの首元を貫く。羽ばたきが止まり、地面に倒れ込んだ。
戦闘は終わった。風が血の匂いを押し流し、森の空気が少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「……一応、全滅確認」
「よし、ケガはないか?」
「平気よ。少し焦げたくらい」
アデルは軽く肩を落とし、安堵の息を漏らした。
だが、その場でライカだけは一歩引き、ふたりをじっと見つめていた。
(……やはり、この二人、ただの人間じゃない)
表面上は協調し、会話も自然。だが、その“魔力の質”があまりに異質だった。
――アデルの光と闇。まるで二つの魂が並存しているかのような、相反する存在感。
――リリスの火と風の裏で脈打つ、名もなき熱と圧。獣の本能が拒絶するような、説明のつかない“何か”。
(……気を付けておく必要があるな)
その思考を胸の奥に沈めると、ライカは視線を森へと戻した。
血の匂いがまだ漂う森に、風が通り抜ける。
枝葉がざわりと揺れ、遠くで鳥の声がかすかに戻り始めた。
その静けさの中、ライカは深く息を吐き、ゆっくりと姿勢を正す。
戦闘で膨張した筋肉がしだいに収縮し、逆立っていた毛並みが滑らかに落ち着いていく。
銀の瞳から鋭い光が消え、輪郭は再び普段の獣人の姿へと戻った。
アデルはその様子を横目で見ながら、少し迷うように口を開いた。
「……なあ、さっきの“獣化”って、どういう仕組みなんだ? あんな風に体が変わるの、初めて見た」
ライカは一度、黙ったままアデルを見やった。
「……興味本位か? それとも、戦い方の参考にしたいのか?」
「どっちかっていうと、単純に知りたいだけだな。あれって、力を解放する感覚に近いのか?」
ライカは短く鼻を鳴らした。
「似てるようで違う。俺たち獣人は、生まれつき“獣の本能”と“理性”の二つを持ってる。それを、月や感情の波に合わせて表に出すのが“獣化”だ。肉体は強化されるが……長く続ければ理性が削れていく」
「理性が削れる……?」
アデルの眉がわずかに動いた。
「戦えば戦うほど、獣の衝動が前に出る。牙を立てる相手が敵だけならいいが……状況によっては、味方すら区別がつかなくなることがある」
ライカは低く告げ、指先を見つめてゆっくりと拳を握った。
「だからこそ、無闇には使わない。……本当に必要な時だけだ」
アデルはその答えを聞き、しばらく無言のまま地面の血痕を見つめた後、小さく息を吐いた。
「……なるほど。俺の光と闇の魔力の制御と、少し似てるかもな。どっちも、使いすぎれば暴れるし、制御を失えば周囲を巻き込む」
「お前の力も……あまり普通じゃないがな」
ライカは目を細めたが、それ以上は深く追及せず、踵を返して歩き出した。
リリスが火傷の跡を癒し終え、ふたりの間に割って入るように立つ。
「なに二人で真剣な顔してるのよ。講義でも始めるつもり?」
「いや、ちょっと……獣人の生態についてな」
アデルが軽く笑って答えると、リリスは肩を竦めた。
「ふうん。ま、語り合うのはいいけど、次の魔物が待ってくれるとは限らないわよ。さ、行くわよ」
森の向こうで夕陽が差し込み、霧が金色に染まっていく。
三人の影が長く伸び、揺れながら地面に溶けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます