【第八話:紅に染まる瞳】

 魔導学園ルクシアの女子寮、その最上階に位置する屋上は、昼間の喧騒とは無縁の、静寂に包まれた場所だった。


 ――リリス:ブラッドは、今その屋上に独り佇んでいた。


 黒い鉄製の扉を静かに閉じて、彼女はゆっくりと歩みを進める。

 足元に敷き詰められた石板は、昼の陽射しの余熱をすでに失い、ひんやりとした冷たさを素足越しに伝えてきた。夜露がうっすらと降り、踏みしめた跡がほのかに光を反射している。


 屋上の四方には、腰の高さほどの柵がめぐらされていた。鋳鉄のそれは古びており、ところどころに魔力防壁のルーンが刻まれている。誰もが立ち寄るには不便で、無機質で、少し寂れた

 その空間――それが、リリスにとっては居心地のよい“逃げ場”だった。


 風が吹く。


 乾いた空気が、音もなく頬を撫で、彼女の長い黒髪をふわりと揺らす。

 夜空は澄み切り、見上げれば満ちかけた月が静かに浮かんでいた。星々は淡く輝き、遠くに灯る街明かりが山の端に小さな光点となって並んでいる。


 寮の建物に面した側には、点検用の魔導灯がいくつか設置されていたが、今はそのほとんどが休止しており、代わりに月光が屋上全体を青白く照らしていた。鉄柵の影が石床に長く落ち、風がその影を微かに揺らしている。


 (……落ち着く)


 リリスは屋上の隅に歩を進め、古びた点検ボックスの上に腰を下ろす。わずかに軋む音が、静寂の中に溶けていく。

 背中に当たる鉄板は冷たくて、どこか現実的な感触だった。


 この学園の中で、彼女が素のままでいられる場所は少ない。


 教室では他人の視線が煩わしく、演習場では力を試すことすら警戒が必要だった。

 でもこの場所は、誰もいない。何も言わなくていい。

 誰にも気づかれずに、ただ黙って夜を見ていられる。


 (この空間は……あたしの世界)


 目を閉じると、風の音と、石板の温度、夜の匂いが五感に染み込んでくる。


 遠く、学園の中庭の灯が小さく瞬いていた。きっと今ごろ、どこかの部屋では誰かが笑っている。明日を楽しみに、眠りにつこうとしている。


 けれどリリスにとって、それは別世界の話だった。


 (下では、皆が楽しそうにしてるんだろうな)


 きっと、ティアやマリアはもう就寝の準備をしている。騒がしい男子たちは遅くまでふざけ合っているかもしれない。そう思うと、喉の奥が少しだけ苦くなった。


 学園の生活は、賑やかで、まばゆくて……。

 そして、あまりにも眩しすぎる。


 (みんな、“まっすぐ”すぎるのよ)


 友情だの、努力だの、夢だの。

 それらを声高に語り合う彼らの中で、リリスは常にどこか一歩、距離を置いていた。


 誰かと群れるのは嫌いじゃない。けれど――深入りされるのは、もっと嫌いだった。


 (バレたら終わり)


 その一線を、越えさせるわけにはいかない。


 彼女の魔力は異質だった。

 表向きには《炎》と《風》を扱うとされているが、実際には――もっと根源的で、本質的に“異なる”力が流れていた。


 自分でも時折、ぞっとする。

 内側から湧き上がってくるその魔力に、飲み込まれそうになる瞬間がある。


 (だから、誰にも言えない)


 自分の中にあるその“何か”を受け入れられる人間なんて、この世界にはいない。

 いや、いてほしくない。


 そう思っていた、つい最近まで。


 「……アデル:セリオル」


 その名を口にした瞬間、胸の奥にざわめきが走る。


 不思議な少年だった。

 光と闇――相反する属性を、天性のものとして持っているくせに、本人はそれに酔っても、誇ってもいない。


 自分の未熟さを知っていて、それでも前に進もうとしている。

 臆病なくせに、愚直にまっすぐで――。


 (……バカみたいに危なっかしい)


 それなのに、彼の姿に、何度も視線を奪われていた。


 無意識のうちに、彼を目で追い、言葉を交わし、少しでも心の奥に触れてみたいと――そんな願いが湧いてくる自分に、リリスは気づいていた。


 (……嫌いじゃない、かも)


 小さく笑って、右手を見つめる。

 その掌の内側には、決して人前で見せてはいけない力が、確かに息づいている。


 彼の前では、使いたくない。

 見せたくない。

 知られたくない。


 (……もし、嫌われたら)


 その仮定を想像した瞬間、胸に痛みが走った。


 リリスはそっと手を握りしめた。

 赤い魔力がわずかに滲みかけた指先が、静かに闇へと沈んでいく。


 「……もうちょっとだけ、このままで」


 そう呟く声は、夜風に乗って消えていく。


 この世界で、自分の居場所はまだ見つかっていない。

 でも――。


 (あんたがいてくれるなら、もしかしたら……)


 その先を口にすることはなかった。

 リリスは視線を月へと向ける。


 煌々と輝くその光は、まるで“もう一人の自分”を、黙って見守ってくれているようだった。


 「……明日も、戦わなきゃね」


 屋上に、風が吹く。

 リリスの黒髪が夜空をなぞるように舞い、その瞳に宿る紅の色が、一瞬だけ、月と共鳴するように揺れた。


  ◇


 午後の演習場には、石の地面を打つような重々しい足音が響いていた。


 演習対象――《魔導石ゴーレム》。 身の丈三メートル。岩石を圧縮した魔力体。耐久と防御特化の中級魔導獣である。


 演習場は、灰色の岩盤で造られた広大な空間だった。 天井は高く、陽光が差し込むように魔導灯が配置され、床のあちこちには焦げ跡やひび割れが残っている。 演習の痕跡が、その場に刻まれた記録のように浮かび上がっていた。


 「さて……この構成で挑むのは初めてだな」


 アデル:セリオルは剣を構えながら、背後の仲間たちに目を向けた。 一人はリリス:ブラッド。赤い瞳が静かにゴーレムを射抜いている。 もう一人は、白いローブを揺らす少女――ティア:ラフィエル。


 「リリスは中衛で牽制と斬撃支援、ティアは後衛から補助魔法頼む。俺が前に出る」


 「了解」


 「ま、まあ……わ、私、攻撃は控えめですけど……援護は、まかせて……っ」


 ティアは控えめな声で頷いた。 儚げな見た目に反して、彼女の手には精緻な魔導杖が握られている。


 「来る!」


 ゴーレムが腕を振り上げた。鈍い音と共に地を砕く衝撃。 アデルは一歩踏み込み、回避からの反撃に入る。


 《光刃解放(ルミナス・ブレイド)》


 白色の光の刃が斬撃となって放たれ、ゴーレムの肩部を削った。だが岩の皮膚は容易く割れない。


 「リリス!」


 「はいっ、《刃風(ブレイド・ウィンド)》――!」


 リリスが風を纏った刃を放ち、ゴーレムの足元を狙う。 幾重にも重ねられた斬撃が徐々に動きを鈍らせていく。


 「援護魔法、展開します……! 《迅速の恩寵(スウィフト・ブレス)》!」


 ティアの詠唱が響き、淡い青の魔法陣がアデルの足元に浮かぶ。 次の瞬間、彼の身体がわずかに軽くなる――加速の補助魔法だ。


 「よし、次は急所狙う!」


 アデルは地を蹴り、背後から一気に間合いを詰める。 剣が高速で振るわれ、岩の首元に打ち込まれるが、ゴーレムは鈍重な腕で盾のように弾き返した。


 「……くっ、やっぱり防御が固いな」


 「ティアさん、さらに《魔力探知》を。弱点がどこかにあるはずです」


 「っ、はい……! 今……視えました、胸の中核部! 魔力が集中してます!」


 「リリス、俺が囮になる。中核を頼む!」


 「了解。――《風刃飛翔(ストーム・ランナー)》!」


 リリスの身体が疾風に包まれ、一瞬で戦場を駆ける。 足元を滑るように走り抜け、宙に跳躍してゴーレムの胸部へと迫る。


 《斬撃強化(クロス・チャージ)》――!


 風刃が旋回しながら鋭く収束し、ゴーレムの魔力中枢に突き刺さった。 破砕音とともに岩の表層が割れ、赤い魔力光が漏れ出す。


 「ティア、仕上げ頼む!」


 「――《拘束陣・封》、展開……っ!」


 ティアの放った拘束魔法が地面を這い、幾何学模様の陣がゴーレムの足元に広がる。 光の鎖が巻き付き、動きが鈍る。


 アデルは息を整え、最後の一撃に魔力を集中させた。


 《光斬突(ルミナス・スラスト)》!


 白の光を纏った剣が一直線に貫き、胸部の傷口に突き込まれた。 刃が核を直撃し、砕ける音と共にゴーレムが仰向けに崩れ落ちた。


 轟音が演習場に響き、砂塵が舞う。


 静寂が戻る。 光が揺れる中、三人は肩で息をしながら勝利を確かめ合った。


 「……やった、倒した……!」


 「うまく連携できたね」


 「うん……リリスもティアも、助かった。ありがとう」


 ティアは頬を染めながら小さく微笑んだ。


 「わ、私……本格的な戦闘、苦手だから……でも、役に立ててよかったです……」


 この日――ティア:ラフィエルは、初めて“戦う仲間”として アデルとリリスに認識された。


 静かに、しかし確かに。 その歩みが、物語の歯車に加わっていく。



 ◇



 演習を終えた夕刻の空気は、淡く冷え始めていた。

 陽の傾きと共に演習場には静けさが戻り、片隅に残された三人の姿が、金に染まる光の中で輪を成していた。


 「ふぅ……疲れたね」

 アデル:セリオルが剣を鞘に収め、額の汗を拭う。


 「うん……でも、無事倒せてよかった」

 リリス:ブラッドが軽く肩を回しながら言う。戦闘中の鋭さは消え、柔らかな表情が浮かんでいた。


 そして、少し離れた場所にいたティア:ラフィエルは、魔導杖を抱えるように胸に抱き、どこか不安げな表情をしていた。


 「ティア、大丈夫か? 疲れたなら、休んでいいよ」

 アデルが心配そうに声をかける。


 ティアは青く長い髪を揺らし、小さく首を振った。

 「……ううん、疲れてるわけじゃ、ないんです……」


 その声はどこか曇っていて、視線は足元に落ちていた。


 「……わたし、本当に……役に立ててたのかなって」


 その言葉に、アデルとリリスは同時に視線を交わす。


 「何言ってるのよ。ティアの魔法がなかったら、アデルの攻撃は通らなかったわ」

 リリスがきっぱりと告げた。声にいつもの棘はなく、静かでまっすぐな響きがあった。


 「それにさ、あの拘束魔法……完璧だったよ。タイミングも位置も、すごく正確だった」

 アデルが優しく笑いかける。


 ティアはほんの少し目を伏せたまま、唇を噛んだ。

 「で、でも……あたし、攻撃できないし……いつも怖くて、動きが遅れちゃって……」


 「……攻撃だけが戦いじゃないよ」

 アデルの声が、淡く、確かな響きで続く。

 「誰かを守る魔法だって、動きを止める魔法だって、戦いの中じゃ絶対に必要な力だ」


 リリスも、いつになく穏やかな目でティアを見つめる。

 「私も炎と風を使ってるけど、あんたみたいな正確な支援魔法はできないわ。あんたには、あんたにしかできないことがあるのよ」


 ティアの手が、そっと杖を強く握る。


 「……わたしにしか、できないこと……」


 「うん。だから、もっと自信持っていいんじゃないかな」

 アデルがそう言って、ぽんとティアの肩を軽く叩いた。


 ティアの頬が、少しだけ赤らんだ。


 「ありがとう……アデルさん、リリスさん……」


 小さく、けれど確かな笑みが浮かぶ。


 ――青い髪が、夕日に淡く染まる。


 その笑顔を見て、リリスはふと視線を空に向けた。


 (……少しずつ、輪が広がっていく)


 風が吹き、三人の髪を揺らす。

 その夕暮れは、確かな一歩を照らしていた。

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