量子もつれがほどける時

凍龍(とうりゅう)

コヒーレンスの彼方で

「今日で最後になるね」


 美咲ミサキが量子通信装置の前でそう呟いた時、ぼくの心臓は一瞬止まったような気がした。


「そうだな」


 ぼくは努めて平静を装いながら答える。でも、声が少し震えているのを隠すことはできなかった。

 二人の間にある距離は、およそ四光年。地球と人類初の恒星間植民地「プロキシマ・ケンタウリ・ベース」を隔てる、絶望的なまでに遠い距離だった。

 それでも、量子もつれ通信のおかげで、ぼくらはリアルタイムに会話することができる。もつれ合った粒子のペアは、どれほど離れていても瞬時に情報を伝達する。アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ現象が、今ではぼくらの最後の絆となっていた。


「覚えてる? 初めて量子通信で話した時のこと」


 美咲の声に、懐かしそうな響きが混じる。


「もちろんだよ。君の声が聞こえた瞬間、あまりの臨場感に、本当に四光年先と繋がってるなんて信じられなかった」


 あれからもう三年になる。ぼくが植民船〝希望ホープ〟で地球を発ったのは五年前のことだった。相対論的な効果で、地球時間では八年が経過している。


 最初の二年間は冷凍睡眠で過ごし、目覚めた時には既にプロキシマ・ケンタウリ系に到着していた。そして、植民地の建設が軌道に乗った頃、地球との量子通信回線が開通したのだ。

 美咲は地球で量子物理学の研究をしていた。同じ大学の同期で、ぼくが植民船計画に抜擢される前は恋人同士だった。


「でも、やっぱり無理だったね」


 美咲の声が小さくなる。


「何が?」

「四光年の距離を愛で埋めるなんて、やっぱり無理だった」


 ぼくは何も答えられなかった。

 量子もつれ通信は確かに瞬時に情報を伝えられるが、維持できる時間には限界がある。ペアになっている粒子のコヒーレンスが失われれば、もつれは解けてしまう。そして、新しいペアを作るには、あらためてもつれた量子の片方を物理的に輸送しなければならない。

 つまり、今ある回線が途切れれば、ぼくらが次に話せるのは早くても八年後。地球から次の補給船が到着するまで待たなければならないのだ。


田中タナカくんがプロポーズしてくれたの」


 何となく予期していた言葉だったが、やはり胸に鋭い痛みが走った。

 田中は美咲と同じ研究機構の同僚だった。真面目で優しい男だということは、美咲から聞いて知っている。


「そうか」

「断るつもりだったんだけど」

「でも、受けることにしたんだね」

「……うん。でも、理由があるの」


 美咲の声が震えた。


「去年の春の検査で分かった。私、遺伝性の心疾患を持っていたの。手術が必要で……成功率を上げるにはなるべく若い時点での決断が必要で、術後の回復には家族の支えが不可欠だって」


 ぼくは息を呑んだ。


「どうして今まで言わなかったんだ」

「心配かけたくなかったの。それに、あなたにはどうすることもできないでしょう?」


 その通りだった。四光年の距離を隔てて、ぼくにできることは何もない。


「田中くんは医師なの。循環器の専門医。彼がいれば、手術の時も、その後の療養も安心して頼れるわ」


「美咲……」

「身勝手なのは判っている。でも私、死ぬのが怖いの。一人で死ぬのが、とても怖いの」


 美咲の声が涙で震えているのが分かった。


「判った。判るよ」


 ぼくの声も震えていた。愛している人の命がかかっているなら、ぼくだって同じ選択をしただろう。


「……それにしても、運命の女神は意地悪だ」

「え?」


 ぼくは一呼吸置いた。


「こっちでも事情が変わったんだ」

「どういう?」


「植民地の人口が想定を大幅に下回ってる。事故と病気で、この三年間で四十人以上も失った。地球との往復に八年かかる以上、人口を維持するには現地での繁殖が不可欠なんだ」


 美咲が静かに息を吸う音が聞こえた。


「植民地評議会から通達があった。三十歳未満の独身者は、一年以内に結婚することが義務付けられた。人類の種の保存のために」

「そんな……」

「僕に割り当てられたのはリエっていう植民船の医師だ。シンガポール生まれの明るい女性で、同い年。お互いに選択の余地がない」


 しばらく沈黙が続いた。


「なんだか、ひどい話」


 美咲が小さく笑った。


「どちらも、生きるために、種族を存続させるために、自分の望みとは別の相手を選ばざるを得ない」

「そうだね」


 通信装置の表示パネルが、残り時間を示している。あと三分でコヒーレンス時間の限界に達し、量子もつれは失われる。


「でも、後悔はしてない」


 美咲が言った。


「あなたを愛したこと、あなたが遠い星に旅立つのを見送ったこと、三年間あなたの声を支えに生きてきたこと。全部、私の宝物」

「ぼくもだ。君がいなかったら、この星でやっていけなかったと思う」


 表示パネルの数字が、ゼロに向かって刻々と減っていく。


「せめて……最後に約束しましょう」

「何を?」

「それぞれのパートナーを、心から愛すること。私は田中くんを……」

「僕はリエを……判った。約束するよ」

「お互い、この決断を後悔しなくて済むように……ね」


 カウントダウンが始まった。


「美咲」

「なに?」

「君が命を諦めない決断をしてくれて、本当によかった」

「あなたも。新しい世界で幸せになって」


 かすかなデジタルノイズと共に画面はブラックアウトし、ぼくらを繋いでいた量子もつれは静かにほどけた。

 四光年の彼方で、美咲は命をかけて新しい人生を歩み始める。そして、ぼくもこの新しい星で、植民地の存続をかけてリエと家族を築いていく。

 美咲との愛は終わったけれど、彼女を愛した事実は永遠に残る。

 距離も時間も超える量子もつれのように、一度繋がった心は、きっと何かを共有し続けるのだろう。

 たとえ、二度と互いを知覚できないとしても。


(了)

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量子もつれがほどける時 凍龍(とうりゅう) @freezing-dragon

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