アパート調査 上
天気予報は午後から雨だと告げていた。
空は曇天、まだ暦は初夏の6月。
それでも殺人的な蒸し暑さが、コンクリート上を支配する。
この調子で本格的な夏になったら、一体どうなってしまうのか。
人類は全員バーベキューされてしまうのではないか。勘弁してくれ。
うだうだ無意味な思考をするうちに、横断歩道の信号が赤から青に変わる。
私は左隣で信号を待っていた、自分より一回り小柄な彼女に声をかけた。
「
「わかりました、
流河が右手で私の左肘をしっかり掴み直してから、周囲の車や歩行者に十分注意しつつ、私はゆっくり歩き始めた。
彼女とは10年近い付き合いだが、いまだに一緒に横断歩道を歩くときは気を抜けない。
最近は歩きスマホや、イヤホンをしながら自転車に乗る注意力散漫な輩も増えている。慣れていると言っても、油断は禁物だ。
流河が左手に持つ白杖の邪魔にならないようにしながら、彼女の半歩先を行くペースで歩いていく。
依頼人との待ち合わせ場所は、横断歩道を渡ったすぐ先にあった。
待ち合わせの時刻は午前11時。その10分前に約束の喫茶店に着いた。端末のメッセージを見ると、依頼人は奥の席で既に待っているようだ。
とりあえず約束の時間に間に合ったことに安堵しつつ、喫茶店に入る。
心地良い空調の効いた空気が、汗をかいた体をスッと包んでくれた。
流河は
店の奥に進むと、対面式のソファー席に青いブラウスを来た女性が1人で座っている。
私たちを見つけると、向こうも立ち上がって会釈をしてきた。彼女が春日井さんだろう。
* * * *
「改めまして。ハヤミネ怪現象相談所の、
「所長の
挨拶をし、席に座ってコーヒーをふたつ注文する。
私は以前から春日井さんとはメールでやり取りをしていたが、流河はこれが完全に初対面だ。緊張のせいか、流河の声の調子が少し硬い。
といっても、それは先方も同じのようだが。
「……ご足労いただき、ありがとうございます。
今回の依頼人である春日井さんは、ベリーショートの髪型がよく似合う女性だった。
年齢は私たちよりやや上の30歳で、ご職業は化粧品の会社で勤務しているとのことだ。
彼女は寝不足なのかクマのある目つきで、ギュッと唇を引き結んでいる。
まあ、彼女の置かれた立場を考えれば、そりゃ穏やかな心情じゃないだろう。
なにせ自分の部屋で怪現象が起きていて、いかにも怪しげな社名の連中(しかも小娘2人)に相談しているのだ。おおよそ普通の人生では起こり得ないイベントである。
私は彼女の緊張をほぐすべく努めて笑顔で、彼女に『早峰流河』『鬼無里明里』と書かれた名刺を2枚渡す。
彼女は強張った手で名刺を受け取ったが、すぐにある事に気がついた。
「あれ、このお名刺は……」
「面白いでしょう、点字入りの名刺です。
最近のプリンターはこうした機能も付いているタイプもあって、便利なんですよ」
「私は名刺をお渡する側ですから、お相手に点字は必要ないんですが。
ついでなので、打ってもらったんです」
「へえ……」
彼女はほんの少し興味深そうに名刺と、目を閉じている流河を見比べた。
アイスブレイクにもう少し雑談を挟みたいが、雨が降る前に顔合わせを済ませておきたい。
そう考えていたところで、コーヒーが運ばれてくる。丁度いいタイミングだ。
店員さんがいなくなった後、私は仕事の話を切り出す。
「さて、そろそろ本題に入らさせていただきます。
なんでも、ご自宅で厄介な現象が起きていると伺っていますが」
「あの日以来、雨が降ると部屋から変な
どれだけ掃除しても換気をしても、悪臭が消えることはなくて」
春日井さんは眉間に皺を寄せ、ご自身が体験した怪現象を改めて説明してくれた。
「あの女の姿は、不思議とそれ以降見えないんですが……」
「なるほど」
「アパートの管理会社や警察にも相談してました。
でも臭いはともかく女の存在に関しては、全く相手にしてくれません」
これは仕方ないだろうな。『自宅のベランダに幽霊がいるから何とかしてください』と言われても、普通は妄言としか思われない。
もっと直接的に危険な状況なら、対応も違ったかもしれないが。ストーカー被害だと言った方が、まだ信用されただろう。
「今は梅雨の時期で、雨の日ばかりです。
マスクや消臭剤も効かないし、ホテルや友人宅を渡り歩くわけにもいきません」
「それで、
「ええ。お寺にお祓いをお願いするなんて、初めての経験でしたけど……。
そうしたら住職の方に、『申し訳ないがそういった相談はお応えできません』と言われてしまって。代わりに貴社を紹介していただいたんです」
頑垂寺というのは、この近辺にあるお寺である。
ウチの事務所も同じ市内なので、過去に幾度か仕事で付き合いがあった。今回のように案件を回されるケースも、初めてではない。
「早峰さんたちは……ええと、いわゆる霊能力者であるとお聞きしました」
「私は違いますけどね。オカルトパワーを持っているのは、我らが所長だけです」
「……明里さん、茶化さないでください。
私は確かに霊能力を持っていますが、そんなに持ち上げられる程の者じゃない」
相棒は呆れた声で相槌を打った。
「ですが、お寺にすら頼りにされる方なのでしょう。
その、俗に言う除霊などもお得意なのでは?」
春日井さんの目には、不信の中にも微かな期待が混じっている。
……うーん。申し訳ないんだけど、それは──。
「申し訳ありません。ウチの相談所は、除霊は扱っていないんです」
「え?」
流河が頭を下げると、春日井さんは唖然とした。
ちくしょうあの坊主め、ちゃんと紹介しておいてくれよ。
「外科医と歯医者の担当が違うように、
大変恐れ入りますが、私は除霊に関しては専門外なのです」
その言葉を聞いて、春日井さんの顔が歪む。
胡散臭い霊能力者もどきだろうが、今の彼女にとっては頼みの綱だ。救いの糸とも言える。
当然、こっちだってそれは承知している。「ただし」と、流河は声のトーンを上げて続けた。
「除霊は無理ですが、他のやり方でお役に立てるかもしれません。
例えば、霊がなぜかお部屋に現れたのか。その理由を調べれば、霊を遠ざけることは出来るようになるかもしれない。
頑垂寺もそれをわかって、ウチを紹介されたのでしょう」
「ほ、本当ですか!」
春日井さんの声色に、希望の色が戻った。
「向こう側には、こちら側の常識は通じません。
『絶対に解決して見せる』とは確約できませんが……。それでもご相談していただけた以上は、弊社としても全力で対応させていただきます」
彼女は瞼を閉じたまま、微笑を浮かべる。
「ぜひ一度、お部屋を『拝見』させていただけないでしょうか」
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