第32話 銀狼山脈 ≪1≫
「汀お大尽さまと劉さまには、いつも青蘭楼をご贔屓いただきまして、ありがとうございます。ご登楼が初めての若いお二人さまも、楽しんでおられますでしょうか」
部屋の入り口で、楊福如は恭しく頭を下げる。
客をもてなす商売に長く身をおいてきた、美しい所作だ。年齢を重ねたほのかな色気さえある。皆の目がいっせいに女将に、そして後ろに立つ少女に向く。
握りしめていた盃を下ろし、江馬は心の中で毒づいた。
何が、「楽しんでおられますでしょうか」だ?
見れば、わかるだろう。
楊福如が現われなければ、いまごろは額から血を流した劉貴明は彼に掴みかかっていたことだろう。二人は殴る蹴るの取っ組み合いの喧嘩となり、妓女たちは悲鳴をあげて逃げ惑っているはずだ。
お互いに今日初めて会ったというのに、貴明の言葉の端々にそして目の色に表れる江馬への敵愾心は尋常ではない。自分より下だと見下した者に逆らわれたことがないのか。それとも、逆らうことを許したことがないのか。
そのような一戦触発の雰囲気を、海千山千の妓楼の女将は一目で見抜いたに違いない。しかし、動揺の一筋も浮かんでいない彼女の顔には、涼し気な笑みしかない。
「こちらの部屋の皆々さま方に、白麗さまがご興味を持たれたようです。しかしながら、お客人さま方がご存じの通り、白麗さまはお話することができません。それであればと思い、まずはお連れ……」
「おお、白麗ちゃん、よく来てくださった。さあさあ、爺の隣に……」
福如の言葉をさえぎって、立ち上がろうとして腰を浮かした汀老人が言う。
老いて歯を何本か失い小さくすぼんでしまった口から出てくる、これ以上はないという猫なで声だ。
福如の後ろから、美しい少女が姿を現す。
前に見かけた時と同じように、うなじを隠すか隠さないかの長さで白い髪は切り揃えられている。短い髪と赤い紐を絡ませた小さな髷が後頭部にあって、それがなんとも可愛らしい。そして、髷の根元には、あの銀狼石の簪が挿してある。
薄黄緑色の地に刺繍の小花を散らした袖も丈も長い上衣に、襞を重ねた白い裳裾が覗いている。まだ大人になり切れていない細い胴に鮮やかな朱色の帯が巻かれていて、美しい少女に見とれてしまった男たちの目を恥じ入らせた。
汀老人の呼びかけも耳に入ることなく、また居並ぶ男や着飾った妓女たちにも目もくれない。彼女の目は、淘江馬の前に置かれた料理しか見ていない。軽やかな足取りで裳裾をひるがえし、江馬の前に立つ。
料理を見つめていた金茶色の瞳が、江馬の横に座っている妓女へと動く。瞳の色は言葉よりも雄弁に妓女に語りかけたようだ。江馬にしなだれかかっていた妓女は弾かれたように身を起こすと立ち上がり、少女にその座を譲った。
無意識の一睨みで妓女を追い払い江馬の横に座った少女の目が、再び、料理に向き、しばらくその上をさまよう。やがて、小さな皿に盛られた菓子の上に定まった。すっと手が伸びて菓子をつまむと、手づかみで口の中に入れた。
少女に見とれていた者たちにとっては長い刻に思われたが、それは一瞬の出来事だった。
部屋の外に向かって福如が言う。
「誰か、お客さま方と同じ膳を白麗さまに」
傍若無人な少女のあとを慌てて追った女将の声で、皆が我に返る。
懐から手巾を取り出すとそれで少女の手を拭いながら、女将は言葉を続けた。
「淘さま、失礼いたしました。もうご承知のこととは存じますが、白麗さまは甘いお菓子に目がございません」
「知っている。前に会ったときもそうだった」
甘い菓子で誘って、少女を連れ去ろうとした汀老人を思い出す。その老人は白麗を手元に呼ぶことは諦めたようで、浮かした腰を元に戻していた。隣りに座った妓女が酒を注ぎ、劉貴明が老人の耳に何ごとかを囁いて機嫌を取っていた。ちらりと江馬を見た貴明の目が憎々し気だ。
「気にするな。おれは酒の肴にならない甘い菓子は好みじゃない」
「そう言ってくださると、安心いたします。白麗さまはお優しいお人ですが、気ままなところがおありなものですから」
「女将、謝らなくてもよい。おい、賢明、おまえの菓子も白麗にやれ」
「ああ、江ちゃん、言われなくてもそうするよ」
二人の会話を理解したのか、少女が手を差し出す。
そのうえに賢明も菓子を載せた。
汀老人が無念と諦めを半々に含んだ声で言った。
「しかたがない、若い人たちは若い人たちで通じるものがあるのじゃろうて……。どうじゃ、白麗ちゃんも加わって、また簪談義に戻ろうではないか」
妓女の一人が言う。
「あら、白麗さまは、言葉が不自由です。お大尽さまのお話は理解出来ませんわ」
「いやいや、きっと、白麗ちゃんも懐かしく思うはずじゃ。銀狼石の簪についてじゃからな」
簪影幻譚 明千香 @iyo-kan
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