第2話:観測者と標的

コンパスローズ

:観測者と標的


変わらぬ日曜日が来た。

小鳥のさえずりと、リビングに差し込む柔らかな朝日。キッチンからは、航が淹れるコーヒーの香ばしい匂いが漂ってくる。週末の朝は、彼がコーヒーを淹れるのが習慣だった。昨日までの私なら、その香りに包まれて幸せな微睡みの中にいただろう。


だが、今の私の心は、永久凍土のように固く冷え付いていた。

寝室のベッドで、私は死んだように目を閉じていた。隣で航が身支度をする気配がする。衣擦れの音、引き出しを開ける音、全てが鼓膜を苛む雑音にしか聞こえない。


「汐里、起きてるか?コーヒー、できたぞ」

ドアの隙間から、穏やかな声が投げかけられる。

「……うん、ありがとう。すぐ行くわ」

喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど平坦だった。氷付く私の気持ちを、声帯までが忠実に再現しているかのようだった。


リビングに下りると、航はマグカップを二つ並べ、焼きたてのクロワッサンを皿に載せていた。昨日までと同じ、完璧な夫の姿。

「おはよう」

彼は私に気づき、微笑む。昨日、私がコンパスの針でめちゃくちゃに突き刺した、あの笑顔で。

「顔色が悪いぞ。よく眠れなかったのか?」

「……ええ、少し。変な夢を見たの」

「どんな?」

「あなたが見知らぬ港町で、灯台の設計をしている夢よ。とても美しい灯台だったわ」

嘘だ。私が昨夜見たのは、あの歪んだコンパスローズの図面が、血のように赤いインクで滲んでいく悪夢だ。


私の言葉に、航の動きが一瞬だけ、ほんの一瞬だけ止まったのを、私は見逃さなかった。

「……そうか。正夢になるといいな」

彼はそう言って、何でもないようにコーヒーを啜った。だが、その瞳の奥に宿った微かな動揺は、私の心の氷をさらに硬く、鋭利なものに変えていった。


朝食の後、航は「少し仕事をしてくる」と言って書斎に籠った。

私は、観測者になった。

リビングのソファに座り、古地図の修復作業をするふりをしながら、全ての意識を書斎のドアに向けて集中させる。耳を澄ませば、彼が誰かと小声で電話をしているのがわかる。時折漏れ聞こえる、「週末」「キャンセル」「埋め合わせは必ず」という断片的な単語。


――ああ、あのオーベルジュの予約ね。

昨日の私の言葉が、彼を警戒させたのだろうか。計画に綻びが生じたことに焦っているのだろうか。

いい気味だわ。


私の手元には、昨日突き刺した航の写真がある。今はその上に、あの『M』のイニシャルの周りを丹念に切り抜いたトレーシングペーパーを重ねている。まるで、射撃の標的を作るように。

私のコンパスは、もはや円を描くための道具ではない。

標的を正確に狙うための、照準器だ。


午後になり、航がリビングに戻ってきた。その手には、見覚えのない美しい絵本が握られている。

「汐里、これ、君の店の仕入れの足しにでもなればと思って」

差し出されたのは、19世紀に出版された、星と神話をテーマにした豪華な挿絵の絵本だった。私の好きな時代の、私の好きな画家のもの。昨日までの私なら、狂喜乱舞して彼に抱きついただろう。


「……どうしたの、急に」

「いや、いつも頑張ってくれているお礼だよ。それに、少し、罪滅ぼしかな」

「罪滅ぼし?」

聞き返すと、彼は困ったように笑った。

「最近、仕事ばかりで構ってやれなかったからな」

その言葉の裏にある本当の「罪」を、私は知っている。このプレゼントは、罪悪感を紛らわすための賄賂だ。あの女との計画が狂ったことへの、腹いせの代用品が、私なのだ。


「ありがとう、航。嬉しいわ」

私は微笑んで、その絵本を受け取った。完璧な妻の笑顔で。

そして、彼の腕にそっと自分の手を絡ませる。

「ねえ、あなた。この絵本のお礼に、今度の週末、どこかへ連れて行ってくれない?」

航の身体が、再び硬直する。

私は彼の目を見つめ、甘えるように続けた。


「確か、相模湾の近くに、新しくて景色のいいオーベルジュができたって聞いたわ。崖の上にあって、星が綺麗なんですって。あなたと二人で、ゆっくり過ごしたいな」


緯度と経度で指し示された、あの場所。

あなたの標的がいる、聖地。


航の顔から、血の気が引いていくのがわかった。彼の瞳が、見たこともないほどに揺れている。

観測者だった私は、今、静かに引き金を引いたのだ。


「どうしたの?航」

私は小首を傾げ、純粋無垢な妻を演じ切る。

心の氷が、カチリ、と音を立てた。


さあ、どうするの?私の愛しい、嘘つきなあなた。

あなたの羅針盤が次に指し示すのは、一体どちらの方角?

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さようなら、私の北極星 志乃原七海 @09093495732p

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