さようなら、私の北極星

志乃原七海

第1話"歪んだ羅針盤

コンパスローズ

第一話:歪んだ羅針盤


私の夫、航(わたる)はロマンチストだった。

建築家である彼は、私たちが住むこの家を設計した時、リビングの吹き抜けの天井に、一枚の大きな羅針盤を描いた。アンティークゴールドで縁取られた、美しいコンパスローズ。

「汐里、君は僕の人生の北極星だ。このコンパスローズがいつも北を指すように、僕の心はいつも君を向いている」

その言葉を、私は心の底から信じていた。古地図を愛し、その店を営む私にとって、それは世界で一番甘美な愛の言葉だったから。


家の至る所に、地図や天球儀、年代物のコンパスが飾られている。航が設計した光溢れる空間と、私が集めた歴史の断片が完璧に調和した、私たちの城。そのはずだった。


亀裂は、音もなく忍び寄る。

最初は、ほんの些細な違和感。夜中に書斎で電話をする、低い潜めた声。シャワーを浴びてから寝室に入ってくるようになったこと。そして、彼のジャケットの襟元から漂う、私が知らない甘い花の香り。それは、私が好む白檀や柑橘系の香りとは正反対の、むせ返るような香りだった。


「疲れてるの?」

「ああ、新しいコンペが大変でね」

彼はそう言って私の髪を撫でる。その指先の微かな震えに、私は気づかないふりをした。信じていたかった。私たちの完璧な世界が、揺らぐはずがないと。


決定的な発見は、雨の降る土曜の午後に訪れた。

航が出かけた後、彼の書斎の窓が少し開いていることに気づき、閉めに行った時だった。机の上に、一枚のトレーシングペーパーが無造作に置かれている。そこに描かれていたのは、見たこともないデザインのコンパスローズだった。


航の筆跡だ。しかし、いつもの彼の直線的でモダンなデザインとは違う。

優美で、有機的で、そして、異様なほど官能的な曲線で描かれている。


北を示す針の先には、小さなサファイアが。東にはエメラルド。西にはトパーズ。それぞれの宝石には、意味があるのだろう。

けれど、私の目を釘付けにしたのは、そこではなかった。


南南東。

その方角を指し示す一本だけが、ひときわ精緻に、薔薇の蔓が絡みつくように描かれていた。そして、その蔓の先に咲く一輪の薔薇の中心には、美しいカリグラフィーで『M』というイニシャルが刻まれている。


心臓が、氷の塊を飲み込んだように冷えていく。

その図案の下に、走り書きされた一組の数字。


N 35° 18' 21"

E 139° 05' 47"


緯度と経度。座標だ。

私は震える手でスマートフォンを取り出し、その数字を打ち込んだ。地図アプリが示すピンは、ゆっくりと拡大され、一つの場所を指し示した。


相模湾を見下ろす、崖の上に立つオーベルジュ。

写真には、海と空の青に溶け込むような白い建物と、プライベートテラスに置かれたジャグジーが写っている。口コミには「記念日に最高の場所」「誰にも邪魔されない、二人のための隠れ家」という言葉が並んでいた。


『M』とは誰?

なぜ、南南東?

どうして、薔薇?


航は、建築物にその土地や施主に因んだモチーフを隠す癖がある。これは、彼が『M』という女のために捧げた、特別な羅針盤なのだ。私のための北極星ではなく、あの女のいる南南東を指し示す、新しい心の羅針盤。


「ああ、そう…」

声が漏れた。それは乾いていて、自分のものではないみたいだった。

「そういうことだったのね、航」


私はトレーシングペーパーをそっと手に取った。薄い紙の向こうに、リビングの天井に描かれた、私たちのコンパスローズが透けて見える。

ふふ。ふふふ。

笑いが込み上げてくるのを止められなかった。


「あなたの羅針盤、少し針が狂っているみたいね」


私は書斎の引き出しを開け、自分の仕事道具を取り出した。ずっしりと重い、ドイツ製の精密な製図用コンパス。その針先は、どんな硬い紙でも正確に貫く






「そういうことだったのね、航」


私はトレーシングペーパーをそっと手に取った。薄い紙の向こうに、リビングの天井に描かれた、私たちのコンパスローズが透けて見える。

ふふ。ふふふ。

笑いが込み上げてくるのを止められなかった。


「あなたの羅針盤、少し針が狂っているみたいね」


私は壁に飾ってあった、一番お気に入りの写真立てを手に取った。海辺で撮った一枚。潮風に吹かれながら、満面の笑みで私を抱きしめる航。その幸せそうな顔が、今は憎悪の炎を煽る薪にしかならない。


ガラスを外し、厚手の印画紙を取り出す。

そして、書斎の引き出しから、ずっしりと重いドイツ製の製図用コンパスを取り出した。その針先は、どんな硬い紙でも正確に貫く。


「大丈夫よ、航」


私は航の笑顔の上に、コンパスの針をそっと立てた。

まずは、どこから?

私に「愛してる」と囁いた、その嘘つきな唇?

それとも、あの女を見つめたであろう、その優しい目?


プスリ。

最初に貫いたのは、彼の左目だった。

紙を突き破る、乾いた小さな音。確かな手応えが、震える指先から腕を伝い、私の背筋をぞくりとさせた。

「この!この!」

プス、プス、プスッ!

「裏切り者!!」

もう、我慢できなかった。

狂ったように、何度も何度も針を突き立てる。

彼の目、鼻、口。優しく弧を描いていた眉も、形の良い耳も、私が好きだった全てを、穴だらけにしていく。


プス、プス、プス、プス!

写真は、まるで蜂の巣のようになった。

突き刺すたびに、紙が小さく悲鳴を上げる。それが、私の心の叫びと重なった。

コンパスを持つ手が痛くなるのも構わず、私は無心に手を動かし続けた。

穴と穴が繋がり、航の顔はもはや判別できないほどに無残に崩れていく。

私が愛した顔が、私の手によって破壊されていく。その行為は、背徳的な快感を伴っていた。

壊してやる。全部、全部。

あなたが私にしてくれたことと同じように。

あなたが存在そのもので私を傷つけたように。

この手で、あなたの形を、この世から消し去ってやる。


はあ、はあ、と息が上がる。

気づけば、写真の顔だった部分は、ぐしゃぐしゃの紙くずと無数の穴になっていた。

私はコンパスを放り出し、床にへたり込んだ。

涙は一滴も出なかった。

ただ、胸の奥で燻っていた黒い塊が、少しだけ形を変えた気がした。もっと冷たく、もっと硬く、鋭利な刃物のような何かに。


静寂が戻った部屋で、私はゆっくりと立ち上がる。

床に落ちた、歪んだコンパスローズの設計図。そして、無数の穴が開いた、航だったものの残骸。


私は歪んだコンパスローズの上に、真っ白なケント紙を重ねた。


「正しい方角を、このわたしが、教えてあげる」


チリッ、とコンパスの針が冷たく光る。

もう、迷いはない。

まずは、あなたの愛する『M』のイニシャルから。

あなたの身体に、心に、その輝かしい未来の設計図に。


取り返しのつかない、美しい穴を開けてあげるために。

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