シャッター
美月が情報システム課に来てから、もうすぐ二週間が経とうとしていた。
最初は緊張した様子だった彼女も、今では必要な作業を自分で判断してこなせるようになっている。確認すべきポイントも押さえていて、正直、思った以上に頼りになる存在だった。
そんな午後——部署のドアが勢いよく開いた。
「真木さーん、打ち合わせお願いしまーす。ちょっと早かったですかー?」
変わらないはずの日常に、沙耶の明るい声が差し込んだ。笑顔もいつも通りなのに、なぜか胸の鼓動だけが騒がしくなる。
「……いえ、大丈夫です。こちらへどうぞ」
僕は軽く会釈しながら、部署の一角にある共有スペースへと案内する。
今回の相談は、広報が進めている新しい企業PRキャンペーンの件だった。配布用のパンフレットを作るにあたり、現場スタッフの働く姿を収めた写真を使いたいとのことだった。
「ねえ真木さん、この前撮ってた荷捌き場の写真あったじゃん? あれ、めっちゃよかったのよ。ああいうの、またお願いできる?」
「構図的には撮れますけど……写ってる人の許可と、現場スケジュールの確認が必要ですね」
「それは広報で通すから! あと、光の感じ? もうちょいドラマチックな雰囲気にしたいやつとか……」
「たぶんそれ、撮るより加工の領域ですね。RAW残ってるなら調整は可能です」
沙耶は嬉しそうにうなずいた。
「さすが真木さん。やっぱ光が命なんでしょ? カメラマンって感じでかっこいいよね!」
「……まあ、そんなところです」
そう返した瞬間、顔が少し熱くなったのを感じた。
隣でメモを取っていた美月が、ちらりと僕の横顔を見る。その視線を感じた僕は、なぜか少しだけ、目をそらした。
打ち合わせが一段落した頃、部署のドアが再び開いた。
「あ、沙耶ちゃん。打ち合わせ?」
スーツ姿の瀬戸陽一が顔を出す。軽く手を上げながら室内を見回し、にこやかに近づいてきた。
「はい、大丈夫ですよ。もう終わります」
沙耶が笑顔で応じると、陽一は美月の方に目を向けた。
「美月ちゃん、仕事は慣れた?」
「はい、なんとか……」
「おー、よかった。じゃあさ、悠人。今夜、美月ちゃんの歓迎会しようぜ。ちょうど金曜だし!」
突然の提案に、僕は思わず沙耶の方を見たが、彼女はすでにノリノリだった。
「賛成! 私も行くー!」
「課長、どうですか?」と陽一が部屋の奥に声をかけると、デスクに座っていた課長が書類から顔を上げた。
「俺は今夜ちょっと予定が入っててな。みんなで楽しんで来な」
「そうですか、残念です。」
課長に答えると、美月は少し戸惑ったように笑った。僕はというと、少しだけ口元を緩めながら、美月の横顔を見つめていた。
———
仕事が終わると、僕たちは連れ立って繁華街の洋風居酒屋へ向かった。レンガ造りの内装に、間接照明の柔らかい光。天井には木の梁、壁際にはワインやウイスキーのボトルがずらりと並んでいる。ちょっと洒落た雰囲気の店だ。
席は四人掛けのテーブル。陽一が奥に座り、僕がその正面。陽一の横には沙耶が腰を下ろし、僕の正面には美月が座った。
テーブルにはすでにドリンクが運ばれてきている。陽一と僕はビール、沙耶はレモンサワー、美月はウーロンハイを頼んでいた。
「じゃあ、美月ちゃんの歓迎会ってことで——」
陽一がグラスを持ち上げる。
「ようこそSMラインシステムズへ! これからよろしく!」
「かんぱーい!」
グラスが軽くぶつかり合う音が、木の天井に優しく響いた。
「真木さんってね、実はけっこうすごいんだよ」
沙耶が、美月の方に乗り出すようにして言った。
「私のパソコン、何回も助けてもらってるの。しかも、ほら、無愛想に見えてちゃんと丁寧だし、仕事めっちゃ早いし」
「へえ……そうなんですね」
美月が僕の方をちらっと見る。僕は「いや、大したことは……」とグラスを口に運んだ。
沙耶は、こんなに近くに座るのは初めてだった。肩が触れそうなくらいの距離。話すたびにふわりと甘い香りが鼻先をかすめる。香水なのか、シャンプーなのか——とにかく心が落ち着かなくなる。
話題は会社のちょっとした噂話や、昔の失敗談に移り、場は自然と和んでいった。
そんなとき——
「あれ、課長じゃない?」
沙耶が不意に窓の外を指さした。
「課長だね」と陽一。
「一緒にいるの、総務の林田さんじゃない?」
沙耶が身を乗り出す。
「林田さんだね」と陽一も同意する。
「これが今夜の予定ってやつ?」
「今夜の予定だね」
「なんか……親しげな雰囲気」
「親しげだね」
「……不倫ですか?」
と美月がぽつりとつぶやく。
僕も、思わず小声で漏らした。
「課長、既婚者だね……」
そのとき、課長がこちらに気づいた。
「あ! こっち見た! みんな知らんふり!」
沙耶が慌てて声をひそめる。
僕たちは、慌ててそれぞれ適当な話題をひねり出し、何事もなかったように笑い出した。
数分後——
店の入口が開き、課長がのっそりと顔を出した。
「おー! ここで飲んでたのか〜!」
その声には、どこか棒読みの気配があった。
「今日は行けなくて悪かったな。えーっと……これで、みんなで美味しいもん食べてよ!」
そう言って、課長は財布から三万円を取り出し、テーブルに置いた。
「じゃ、じゃあ! ゆっくり楽しんで!」
一礼もそこそこに、課長はそそくさと店を後にする。
しばらく沈黙。
テーブルに置かれた三万を見ながら沙耶がぼそっと言った。
「……これ、口止め料だね」
「口止め料だね」
陽一もつぶやく。
「僕たち、賠償されましたね……」
僕がそう言うと、全員が笑い出した。
それからしばらくして、沙耶がスマホを取り出した。
「ねえねえ、せっかくだから写真撮ろーよ! 美月ちゃん、こっち来て!」
「えっ、あ、はい!」
美月がグラスを持ったまま、陽一の隣にすべりこむ。僕もなんとなく身を寄せると、沙耶が画面を確認しながら声をかけた。
「じゃあ、撮るよー! はい、チーズ!」
シャッター音とともに、笑顔がスマホの中に収まった。
「もっかい! 今度はふつうにピースとかして!」
沙耶のテンションにつられて、僕たちは自然と笑顔になった。
数枚撮り終えると、沙耶はスマホを覗き込みながらにんまりと笑った。
「うん、いい感じ〜。はい、真木さん」
「えっ」
「ほら、笑顔!」
沙耶は当然のように僕の隣に座り直し、スマホを持った手をぐっと伸ばす。
「……笑ってるつもりだけど」
「足りなーい。もっと口角!」
沙耶が無邪気に笑いながらぐっと近づく。軽く肩が触れた。香水か、シャンプーか、甘いような清潔感のある香りが、ふっと鼻先をかすめる。
「……はい、撮るよ〜」
沙耶は満足げにスマホの画面を確認すると、ふと顔を上げて言った。
「真木さん、LINE教えてよ。送るから」
「……ああ、いいですよ」
僕はスマホを取り出し、IDを伝える。沙耶が素早く検索し、トーク画面を開いて写真を送ってきた。
「送ったよー」
届いたメッセージには、先ほどの写真が添付されていた。
僕は画面をタップし、写真を開く。
4人で撮った写真と肩を寄せるようにして並ぶ僕と沙耶の写真がそこにはあった。
やや強張った表情の僕に対し、沙耶は楽しそうに笑っていて——まるでその表情が、僕のぎこちなさまでも受け入れてくれているように見えた。
沙耶はくすくす笑いながら、グラスを手に取った。
その笑顔が、さっきよりも少しだけ、近くに感じられた。
店内のざわめきも少しずつ落ち着き始め、空いたグラスや皿がテーブルの上に並ぶ。気づけば、外の街は夜の色をいっそう濃くしていた。
笑い声が余韻のように残るなか、それぞれが席を立ち、鞄を手に取って出口へ向かう。
店の外には、夏の入り口を感じさせる、湿った夜の空気が漂っていた。
「じゃあ俺、ちょっと知り合いのとこに顔出して帰るわ」
陽一がそう言って、ポケットからスマホを取り出しながら手を振る。
「私、向こうの通りからタクシー拾うね」
沙耶も軽く手を上げ、繁華街の灯りの方へ歩き出した。
「長谷川さんは、あっち方面だよね?」
僕が振り向くと、美月は小さくうなずいた。
「僕もそっちなんで、途中まで一緒に行きましょうか」
「……ありがとうございます」
並んで歩きながら、他愛ない話を交わす。駅前のタクシー乗り場で、先に美月を車に乗せた。
軽く会釈をして、タクシーのドアが静かに閉まる。
それから少し遅れて、僕も別のタクシーに乗り込んだ。
自宅に戻ると、シャツを脱ぎながら部屋の電気を点ける。
暗い部屋に、蛍光灯の白い光が広がった。
バッグの中からスマホを取り出し、LINEを開く。沙耶から送られてきたあの写真を、指先でタップした。
スマホをプリンターに繋ぎ、写真を一枚だけプリントアウトする。
椅子に腰を下ろし、出力された写真をそっと手に取った。
そこには、肩を並べる僕と沙耶が映っていた。
少し照れた僕の横で、沙耶は楽しそうに笑っている。
まだ、鼻先に残る香り——
あのとき、沙耶の髪からふわりと香った、柔らかく甘い匂い。
僕は写真を机の上に置く。
その一枚には、シャッターに切り取られた、
まだ自分でも気づいていない感情が——
静かに潜んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます