鼓動

 強い日差しに混じって、蝉の声が遠くから聞こえてくるようになった頃。

 SMLSの広報部から、秋に予定されている「海産物フェア」に向けた広報素材の撮影と、システム確認のための現地ロケハンの話が持ち上がった。


 場所は、海沿いの提携先。物流拠点の見学と、現地飲食スペースでの“浜焼き体験”を兼ねた取材で、広報部と情報システム課からそれぞれ担当者が同行することになった。


 情報システム課からは僕が担当に選ばれた。現地でのネットワーク確認や、予約・注文用の端末チェックが主な任務だが、「勉強のために」と、美月も同行することになった。


「真木さん、美月ちゃん、こっちこっち〜。あ、瀬戸さんも来てるよ」


 会議スペースに目を向けると、いつもの笑顔で座る瀬戸陽一の姿があった。


「え?陽一も行くの?」


 僕が思わず聞くと、彼は自信満々に言った。


「チームリーダーだからな、念のためってことで——」


 すると沙耶が笑いながら補足した。


「……という理由で、自ら立候補してきました」


「硬いこと言うなって。仕事で海に行けて、美味いもん食べられるんだぞ」


 陽一が小声で耳打ちしてくる。


「聞こえてるし」


 沙耶がくすっと笑った。


 沙耶がタブレットを開き、資料をテーブルに表示する。


「じゃあ、今回のロケハンの内容、ざっと確認しておきますね」


 沙耶の声に皆がうなずく。


「まず午前中は、物流拠点でシステムチェック。真木さんと美月ちゃんは、端末とネットワークの確認をお願いします。タブレットとハンディの挙動も見ておきたいので、予備も持っていきます」


「了解です」


 僕が返事をすると、美月も小さくうなずいた。


「そのあと昼は、現地の飲食スペースで“浜焼き体験”。ここで素材の写真撮影も予定してます。秋の海産物フェア用のカットですね」


「え?食べれるんですか?」


 美月がぽつりとつぶやくと、沙耶が笑いながら答えた。


「食べれますよぉ。野外になるんで私服で来ても大丈夫ですよ」


 そして、沙耶は続けた。


「午後は、海沿いを回って、パンフとかWebに使えそうな撮影スポットをチェックします。真木さん、業務用の一眼もお願いできます?」


「はい、大丈夫です」


 沙耶は笑顔のまま、ぴっと指を立てて言った。


「じゃあ、そんな感じで〜。あとは当日、晴れるのを祈りましょう!」


「よし!海だ!」


 陽一が両手を上げて声を出した。


「遊びに行くテンションだな……」


 僕が呆れ気味に言うと、隣の美月が笑いながら口を開いた。


「瀬戸さん、水着とか持ってきそうですね」


「おいおい、美月ちゃんまで言うようになったか……」


 陽一が肩を落とし、皆がどっと笑った。


「言っときますけど、仕事ですよ」


 沙耶が一拍置いて真顔で言うと、さらに笑いが広がった。


 ———


 ロケハン当日の朝。


 営業車がずらりと並ぶ会社の駐車場に、一足早く僕の姿があった。

 集合時間にはまだ少し早い。車に乗り込むのも早すぎる気がして、日陰に寄りかかるように立っていた。


 ふと、背後から軽やかな足音と、明るい声が届く。


「おはよー!」


 振り返ると、そこには沙耶の姿があった。


 サングラス越しに覗く笑顔。

 首元は丸襟の白い半袖ブラウス、風にふわりとなびく生地。

 ベージュのショートパンツから伸びる足は、驚くほど白くて細い。

 日差しを受けて、ほのかに透けるような肌が目に飛び込んできた。


「え……っと……思いっきり、バカンスっぽいけど」


 僕がそう言うと、沙耶は首をかしげながらサングラスを外した。


「そう? 普通でしょ? 海行くんだし」


「……はぁ」


 確かに私服で来ていいとは聞いていた。

 でも、“仕事で海に行く”のと“バカンスで海に行く”のでは、明らかに温度差がある気がする。


 僕がぼんやりとその足元に目をやっていると、沙耶がふいに言った。


「ねえ、見すぎじゃない?」


「見てないです」


「へぇ?」


 沙耶はにやりと笑うと、つま先を伸ばしながら、ショートパンツの裾を指でつまみ、すこしだけ捲り上げた。


「ちょっ……」


 思わず目をそらし、反対方向を向く。


「冗談だってば」


「相沢さん!」


 顔の熱をなんとか隠しながら抗議すると、沙耶はケラケラと無邪気に笑った。


 すぐに陽一がやってきた。


「おはよー」


 現れた彼は、かんかん帽に派手なアロハシャツ、そして白のハーフパンツという、いかにも南国リゾートな出で立ちだった。


「陽一……それ、もうウクレレ弾く人じゃん」


「そう? 普通でしょ、海だよ海」


「はぁ……」


 二人の横に立つと、チノパンにリネンシャツ姿の僕が、逆に浮いている気がした。


 しばらくすると、美月がやってきた。


 淡いグレーのタンクトップに、ネイビーの花柄ロングガウン。その下にはカットオフのデニムパンツ、足元は黒のフラットサンダル。軽やかな装いなのに、どこか落ち着いた雰囲気をまとっている。


「おはようございます」


 そう言って、にこやかに頭を下げる。その肩には、大きめのリュックが背負われていた。


「おはよう……長谷川さん、今日は荷物が多いね」


 僕が声をかけると、美月はリュックのストラップを軽く握って言った。


「いや、みんなで食べられるかなって……お菓子、いろいろ持ってきました!」


「……遠足気分だな」


 思わず苦笑すると、美月は「えへへ」と照れたように笑った。ガウンの裾が風に揺れ、草地の朝の空気に溶け込んでいく。


「ほら美月ちゃんも楽しんでんじゃん。お前も楽しめよ」


 陽一が僕の肩に軽く腕を回しながら言う。


「……俺はこれでも楽しんでるつもりなんだけどな」


 ———


 目的地までは車でおよそ二時間半。

「悠人は向こうで仕事があるからな」と、運転は陽一がかって出た。

 ……陽一は、何をしに行くんだろう。


 車内はまるで修学旅行のようなにぎやかさだった。

 美月が持ってきたお菓子も、気づけば半分以上なくなっていた。


 現地に到着すると、まずはスタッフに挨拶を済ませ、それぞれの持ち場に向かう。

 僕と美月は、物流拠点内の端末やネットワークの接続状況を確認しながら、通信テストや入力シミュレーションを進めた。

 手順を説明するたびに、美月がメモを取りながら、真剣な表情でうなずいていたのが印象的だった。


 ひと通りの作業を終えると、現地スタッフに案内されて、昼食会場へと移動することになった。

 砂浜のすぐそば、テントの下に設けられた浜焼きのスペース。炭の香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。


 そのタイミングで、どこからか陽一がひょっこり現れた。


「……何してたの?」


 僕が思わず声をかけると、陽一は涼しい顔で答える。


「お土産コーナーを物色してた」


「……そうか」


 妙に納得できてしまうのが悔しい。


 ひと通りの作業を終えると、現地スタッフに案内されて、昼食会場へと移動することになった。

 砂浜のすぐそば、テントの下に設けられた浜焼きのスペースには、すでに火の入った炭と、新鮮な貝や魚介がずらりと並べられている。

 その風景はまさに“海の恵み”という言葉がぴったりで、僕たちはまずカメラを構えた。


「このあたりで撮っておきましょうか」

 沙耶が言うと、僕も一眼レフの電源を入れる。光の向きを確認しながら、網の上で焼かれるホタテやイカを何枚か撮影した。

 湯気が立ちのぼる瞬間を逃さないよう、美月もスマホを構えて、黙々とシャッターを切っていた。


 撮影が一段落すると、ようやく昼食タイム。

 スタッフの方が手際よく並べてくれた焼きたての浜焼きを囲み、僕たちはそれぞれ席に着いた。


 僕と美月はウーロン茶を手に取り、軽く乾杯。

 沙耶は「地元限定らしいよ〜」と、炭酸のきいた果実フレーバーの地サイダーを選んでいた。

 そして、陽一は迷うことなく缶ビールをプシュッと開けて、一口。


「……帰りの運転、する気ないな」


 僕がぼそっとつぶやくと、陽一は最大限の笑顔で微笑んだ。


「これ、美味しい!」


 沙耶が嬉しそうにサイダーの瓶を掲げる。

 透き通った炭酸の中で、小さな泡が軽やかに弾けていた。


「ちょっと飲んでみる?」


 そう言って、笑顔のまま瓶を差し出してくる。


「……じゃあ、少しだけ」


 僕はためらいながらもそれを手に取り、一口飲んだ。


 その瞬間、また心臓が跳ねた。

 ドッドッドッと、波打つように胸の内がざわめく。


 ——まただ。

 沙耶といると、鼓動が乱れる。


「……苦手だった?」


 沙耶が不安そうに、少しだけ顔を傾けて僕を覗き込む。


「いや、美味しいよ!」


 慌てて笑顔を作って取り繕うと、彼女はぱっと表情を明るくした。


「でしょ!」


 その無邪気な笑顔が、また胸を締めつけた。


 それから先、浜焼きの味はよくわからなかった。

 ただ、沙耶の笑顔が目に焼きついて、胸の奥が少し苦しくなるばかりだった。


 昼ごはんが終わる頃、ふと気づくと沙耶の姿が見えなかった。


 目をやると、彼女は砂浜の波打ち際にいた。

 サンダルを丁寧に並べ、素足のまま、海に足を浸している。


 小さな波が寄せては返し、彼女の足元をやさしくさらっていく。

 そのたびに白い肌がちらりと見え隠れし、光にきらめいていた。


「気持ちいー!」


 空に向かって伸びをするように、沙耶が笑いながら声を上げた。


 僕はバッグからそっとカメラを取り出す。

 ファインダー越しに、彼女の姿を追いかけた。


「相沢さん!」


 呼びかけると、沙耶は軽やかにこちらを振り返る。

 レンズに気づいた瞬間、両手でピースを作って笑ってみせた。


 シャッターの音が、静かに響いた。


 僕のカメラが、彼女の最高の笑顔を捉えた。


 ただの一枚。

 けれどその笑顔は、

 胸の奥に深く焼きついて、離れない。


 それが、いつまでも僕の心の中に残る一枚になるなんて、このときの僕はまだ知らなかった。

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